雲行きが怪しくなってきたのでバスを選んだ。年明けから向こう、気温は下がる一方である。あまり着こむのを好まない真田にとってはつらい季節で、首元に巻いたマフラーを口元まで引き上げた。駅前のバス停には真田の後ろ、続々と人が並びつつある。やがてロータリーを回ってきたバスに乗り込み、吊革につかまっていると、左肩に、突如負荷がかかった。急停車で揺れた拍子に倒れこんだものらしい。首を巡らせると、伊達が足元を立て直しているところであった。バランスがとりにくいと思ったのか、肩にかけた鞄を足の間に置いている。隣に立っているのが真田ということに今気づいたのだろう、よう、と声をかけてきたので無言でそれに応じた。左肩の負荷はそのままかけられたままだ。ジャケットの袖を掴む伊達の手は離れそうにない。あ、と伊達が声を発した。視線を向けると、流動する窓の景色の中に白いものが混じり始める。今年初めての雪であった。
伊達の記憶は、年が明けるとともに綺麗さっぱり洗い流されてしまったものらしい。長曾我部の言った通りであった。教室での伊達は、もはや真田を単なるクラスメイトという目でしか見ぬ。それもときどき怪しいもので、真田という名前さえ失念するときもままだ。すべて己のせいと判ってはいるものの、喉のあたりにわだかまる苦いものを飲みこむのはひどく辛い。家に帰り、薄暗い部屋で座り込みながら目をつぶる時間が増えた。冷えた部屋の中でそうしていると寒い考えしかできなくなる。遠い昔に、伊達の記憶に関する契約をした己を憎悪し、契約とはいえそうも簡単にすべてを忘れた伊達を呪った。そうすると、忘れたくないと真田の肩に伊達が噛みついてきたあの夏の日のことが急に思い出されて真田はぐうと唸ってしまう。伊達はなにも悪くない。すべて己が悪い。結局思考はそこに収束して、寒い部屋で真田は膝を抱えるよりない。
積もるかな、これ。隣で伊達がぼそりと呟いた。真田は気づかれぬように首を少し曲げて、伊達の様子をうかがう。白い眼帯と横に流した前髪で表情は判然としないが、すっと伸びたくちびるから顎のラインが少しだけ震えるのが見えた。さあ、どうだろう。応じて、真田もまた窓に目を凝らす。だんだんと雪の量は増えているようにも見える。天気予報を見てくるのを忘れていたため、真田は傘を持ってきていなかった。バス停からは走るはめになりそうだと思いながら、左肩にかかる負荷を気にしている。伊達のそれが無意識だと知っていながら、少しだけあたたかな気持ちになる。
休み時間、自販機でコーヒーを買い求めていると隣に人の立つ気配がする。プラスチック板に映りこんだのは長曾我部である。彼はペットボトルのお茶を選び、空き缶入れの横でコーヒーをすする真田の横に並んだ。……あれの様子がおかしい、お前変なことしてねえよな。さあ、某にはさっぱり。キリキリキリとプラスチックのキャップをひねる音がする。長曾我部はボトルの中身を半分ほど飲み干して、息を漏らした。雪が降っているからかもしれん。窓から覗く空は灰白で、粒の小さな乾いた雪が間断なく降り注いでいる。すでに校庭は白に覆われた。二階から見下ろす民家の家々も、まばらに白くなっている。……そのようなことで揺らぐものなのでござろうか。真田の問いに、さてなと返して長曾我部は去っていった。缶の底に少し残ったコーヒーを飲み干し、真田もそこを後にする。クラスメイトの話だと、雪は明日まで降り続くらしい。雪に関して思い出されることは一つだけあった。だがそれを伊達は覚えてはおらぬだろう。向こうが壁のせいで鏡面になっているガラスに己の顔が映りこんでいるのが見える。こちらの一七歳にしては疲れた顔をしている。目をそらしてふ、と笑んだ。片頬を釣り上げるやり方である。いやな笑い方だと、自分でも思う。
雪はそれから二日続いた。降っては止み、降っては止みを繰り返したために道はアイスバーンになっている。道路はもうあらかた溶けてしまっているものの、歩道の雪が溶ける気配はなかった。寒い日が続く。バスを選ぶ朝が増えた。
そうすると、なぜか隣に伊達が立っていることが多い。窓にわずかに映る影でそれと判る。だが伊達は真田に気づいているのかそうではないのか、あえて話しかけようとはしてこない。ただ時折、あの日を再現するかのように左肩に負荷がかかる。それが朝の楽しみになっている自分に気づき、真田はこころの震える思いをする。
ゆっくりと雪は溶けていった。校庭の土が乾き、日陰で黒く汚れていたのさえもう水たまりを作るのみになったころである。三学期の期末考査を前にして部活動は活動を停止している。ひっそりと静まった校舎内を真田は滑るように走った。中庭の灯りが点滅を始めている。友人とテスト範囲の確認をしていたらすっかり遅くなってしまっていた。
ふと目が特別教室棟を向いた。夏から秋にはせっせと通った茶道室からはすっかり足が遠のいてしまっている。走っていた足が止まる。テストを前にして活動を止めるのは文化部も同じのはずであるのに、木々の向こうの、端から五番目の窓には灯りがついている。今日は、確か月末の木曜日である。
例えば、真田の腹の奥底でいまだに白々と発光し続けているものの一つがそれである。雪の日の、米沢の茶室。手に槍を持たぬ状態での逢瀬はあれが最初で、最後であった。畳の上に端坐しかの人が静かに茶を点てるのをじっと見つめていた。あの姿形はこちらに来てからでもちっとも失われてはおらず、静かな感動と興奮を感じたのを真田は今でも覚えている。長曾我部が止めるのでなければ、今でも繰り返したい。その冬の日に初めて告げた言葉と、春に再会してもう一度伝えた一言、夏のあの日に何度も何度も耳元で繰り返したあの睦言。俺が失いたくないのは、戦場でのあの燃えるような高揚もだが、あのすべての音が雪に吸いこまれた茶室の時間もであるのだ。真田の、お慕いしておりますという言葉を聞いてヒュッと息をのんだ伊達の表情を今でも真田はありありと思い浮かべることができる。そのあとの、目を伏せて静かに笑んだかの人の顔も。全て。
足は自然と茶道室に向かった。人気のない廊下はしんと冷えている。引き戸をからりと開けると、中からはゆるりとしたあたたかな空気が真田の手に触れた。音をたてぬようにそっと中に入る。部屋の奥、窓辺の畳の上に伊達が座ってなにをするともなしに外を見ている。
ふとたまらずに政宗殿と呼びかけた。びくりと肩を震わせた伊達は真田に目の焦点を合わせると、強張らせていた顔の緊張を解く。ああ、お前か。……部活は。声はひび割れて無残だ。真田は握った右手に汗が滲んでくるのを感じている。テスト週間では?……今日、第四木曜だろ。
眩暈を覚えながら、真田は腰を上げて給湯室に向かう伊達を見送る。やがてシュンシュンと湯の沸く音がしはじめる。座っていろと伊達が言うので、真田はふらふらしながら畳に膝をついた。すぐに膝もとに茶菓子が置かれる。紅葉をかたどった練りきりである。
真田の横に、茶道具とともに座った伊達はすぐに茶を立てはじめる。サカサカサカという音を聞きながら真田はじっと膝元の紅葉を見ている。いたたまれない。授業が終わってからずっとここにいたのだろうか。こそりとしたくちびるを噛んだ。真田が足を向けなかっただけで、伊達はずっとここで待っていたのだろうか。誰を、なぜ待っているのかも自分の中で割り切れぬまま。
茶碗を真田のほうに押しやり、伊達はそっと息をついた。しかし真田は正座の膝に手を握りしめたままである。顔をあげることもできない。畳の上をする音がした。伊達が窓辺に寄った音であろうと思った。
あんた、中学どこだっけ。……**中。どこ住んでんの?**市です。ぼそぼそと答える真田の様子に、伊達はちらりとでも視線を向けたろうか。ややあって、知らないし、行ったこともないと寄越した。やがてやってきた重たい沈黙が、真田の背中を舐めてゆく。膝の上の拳を開いた。茶碗を持ち上げて口をつけるのを、横から伊達がじっと見ている、そんな気配がした。……昔どっかで会ったか?さあ、どうでしょう。じゃあ、なんで、こんなに懐かしいような、泣きたくなるような気持ちになるんだろう。
とうとう真田は両手で顔を覆ってしまった。この瞬間、俺と伊達をこちらに寄越したあの強大ななにものかに打ち勝ったのだと思った。伊達が不思議そうに幸村と呼びかけてくるので、真田はそのままのかっこうで首を横に振った。そうして、俺もですと呟いた。伊達がにじり寄ってくる。歯の根が震えた。うつぶせた視界、畳の上に伊達のてのひらが這ってくる。お前もか、と伊達が呟くので、真田は一つ息を吐いた。そうしてその指にてのひらを被せる。あの日に触れた指とは似ても似つかぬ、骨ばって節の目立つ指である。そのなにもかもが、こころの底からいとおしいと思えた。
廻れ廻れ 冬(090404)