庭に紫陽花が植わっている。赤紫や鈍い青、それらの色が入り混じったようなのが緑の葉の陰からのっそりと首をさらしている。庭に背を向けているときになにやら視線を感じるふうなのはそのせいだろうと真田は思っている。紫陽花の花は人の頭ほどに大きい。今にも寄り集まった小さな花をかきわけて、人の顔が現れるのではないか。それは恐らく真田がいくさ場で屠ってきた有象無象の顔の形をしているに違いなかった。人を憎む目は赤、人を信じる目は青いと聞く。この庭に赤い紫陽花が多いのは、彼らの魂が赤いためだ。或いは、真田の槍が飛沫上げた血のためだろうか。  そういうことを、梅雨の季節がやってくるとふいに思い出す。紫陽花が庭に植わっていると気づくのがその季節のみであるためだ。雪が解け、気温が上がり、いくさの準備に忙しくなる季節である。紫陽花の花はその季節だけはっきりと真田の獣性を知らしめてゆき、梅雨が終わるころには朽ち果て葉を茂らせるのみになる。
 もぞりと背中を動かした。視線は机の上の文から、己の胡坐をかいた膝、板間の目、そうして柱に背をもたれさせて庭を見ている男の背中に行き着く。男は、真田があの決定的な一言を告げてからそうしてそっぽを向いたきりである。真田の呼びかけにも応じる様子はない。彼が真田の部屋を訪れたのはもう昼をだいぶ過ぎたころである。そろそろ部屋に射しこむ陽の光が黄色みを帯びてくるだろう。
 彼の名前を伊達藤次郎政宗という。
 信州のさらに北、奥州を齢十九にして治める国主である。真田とは歳二つしか違わぬ。真田が父・昌幸の元を離れ信濃守信玄の元で初陣を上げたのが二年前の齢十五のときである。その頃には伊達は奥州の小大名を従えていたという。その大名がなぜ上田にいるのか真田には理解できぬ。理解はできぬが事実から推し量れるところを口にしたまでである。それが伊達の気に障ったようで、それから伊達はうんともすんとも言わなくなってしまった。
 一つ小さなため息をつき、文机の上の紙に目を走らせる。伊達に宛てた手紙である。それを書いていたところに彼が現れた。そのときは、まだよかった。
 今朝、留守政景以下二名、奥州から使者があった。信濃守から上田帰参の命を受けて待っていた使者である。取り急ぎ上田城下の寺に宿をとらせ、甲斐に早馬を走らせた。真田は袴の裾をからげて馬を駆った。留守の名は聞いたことがある。伊達一族の名門にあたる。一度や二度は刃を向かい合せたこともあろうが、真田は絶望的に人の顔を覚えるのが苦手で、先触れの者がその名を告げてもピンとこなかった。真田にとってもはやそれは記号でしかない。
 寺にて対面した留守は白髪の混じり始めた初老の男であった。息子ほどの歳であろう真田に上座を譲り、信濃守にぜひとも献上したく、と漆の何重にも塗られた箱を寄越してくる。そもそも外交の不得手な真田である。ようやくといった体で対面を終え、使者三名を上田に登城させた。
 留守が使者に来るということは、贈り主はかの伊達当主であろうと思う。そう思いながらちらちらと目をやっていると、留守の侍従の一人と目があった。真田とそう歳の変わらぬように見える男である。……甥にございましてな。隣を駆ける留守がそう寄越した。物珍しいことに目がのうて、此度も連れて行け連れて行けとうるさくて。真田殿とも歳は近うござるゆえ、後で構ってやってくだされ。
 なるほど、親子ほど歳の離れた留守よりはあの若い男のほうが話も弾むだろう。そう思いながら彼らを部屋に通し、やっとのことで自分は居室に入った。直垂など着るのも久しぶりであるから、肩が凝ってかなわない。すっかり着替えてしまってから、文机の前に坐した。甲斐から正式に礼状はあるだろうが、上田城主としても挨拶の文を届けたほうがよいだろうという考えである。いくさ場でなんどか刃を交えたあの青いひとのことを考えながら筆を滑らせていると、小姓の声が、使者殿が目通りをと寄越してくる。通せと返し、ついでに茶と菓子を用意しろと告げた。間もなく襖のシャッと開く音がし、板間を擦る音がする。申し訳ない、もう少しで書き終わるゆえお待ちくださるだろうか。顔だけ振り向かせると、甥殿だろうあの男が叩頭しているのが目の端に映る。文にござりますか。……ええ、そなたの殿に礼状など。すると、するすると布の擦れる音がする。それはいいと男は言い、その場で読んで寄越せとつなげた。突然声音と空気が変わったので真田はびくりと背筋を反らせてしまう。それはまさしく慣れ親しんだ殺気である。思わず掴んだてのひらには筆しかない。……戯れを。ようやくそれだけ舌にのせると男は鼻で笑った。どうせ俺が読むんじゃねえかと吐き捨てる。
 振り向いた先に、伊達は顔半分をさらしで覆い、すっかり足を崩した様子でいる。垂らした長い前髪がその顔を縁取った。その向こうから左目でぎらぎらと真田を睨みつけて、口の端を歪めている。真田はすっと足を正し、伊達に向けて叩頭した。……ご無礼を致しました、お許しを。
 さぁさぁと雨が降り出した。見る間に紫陽花が雨露に濡れてゆく。空気はじわりと水気を含んで、板間の上に沈殿した。真田は頭を上げることができぬ。様子からして、伊達の機嫌はすこぶる悪いようだった。
 やがて小姓が茶を運んでくる。そのときばかりは伊達も姿勢を正したが、外の目が引いてしまうとまた足を崩した。そうして真田には目もくれない。雨にけぶる庭に気が向いたのか、真田にすっかり背を向けてしまった。
 気まずい空気に、真田はくちびるを茶で湿らせる。なにか言わねばならぬと気は急くが、そもそもひととひとの間の駆け引きにはとんと疎い性分である。武田の主のように竹を割ったような気性の御仁であれば接しやすいのだが、この伊達という男はそうはいかない。……手の中の茶碗はすっかり温くなってしまっている。すうと息を吸いこみ、伊達殿、と呼ばわった。真田の位置からは、長い前髪からすっと伸びる頬から顎の稜線しか見えぬ。それでもその筋肉がわずかに緊張したのは見て取れた。
 茶が冷めまする、どうかこちらにいらしては下さらんか。左半分がこちらを向く。それだけでも収穫である。真田はほっとして張っていた肩から力を抜いた。立ちあがり、濡れ縁に座る伊達の隣に膝をつく。まさか伊達殿だとは気がつきませんで、申し訳なかった、そろそろ機嫌を直しては下さらんか。口元を緩めてそう告げると、上目に真田を見ていた伊達の目がさっと曇った。しまったと思ったころにはもう遅い。伊達は真田を避けるようにしてまた体の向きを変えてしまう。その拍子に、真田が持ってきた茶碗がことりと転がった。あ、と真田が手を伸ばすも、少しの差で茶碗は中身をこぼしながら庭に転げ落ちてしまった。澄んだ淡水色のそれは、見る間に雨粒に覆われてゆく。

けだものの恋(090823発行予定より冒頭部分を抜粋)