雪の降る日は音で判る。しんしんと降り積もるそれは、空から地面に落ちてくるまでに周囲の音を一切合切吸いこんでしまう。だから真実雪の降る音はしないのだと伊達は思う。そう思いながら天井を見つめている。体温で温もったかいまきのなかでもぞりと身動きし、からだを横向ける。薄暗い中、視線の向こう、襖を何枚か開いた先にある庭のことを思い浮かべた。小さな南向きの庭で、右手に小さな池がある。つるりとした分厚い椿の葉が薄く張った氷にのった。池には鯉が住んでいる。黒い鱗の際が、薄い陽に照って金に光る。気温が低くなってくるとずっと深いところにもぐってしまって、最近はその鱗の光るのを見ていない。
 しばらくそのまままどろんでいた。薄く開いたまぶたに力を入れる。そうしてすっかり目を開いた。ひとつ息を吐いて起き上がる。途端に冷気が胸元から入り込んではっとする。息が白い。音はない。屋敷はまだ眠っている。かいまきを手繰り寄せ、枕元においた襟巻に手を伸ばした。
 温もっていた足の先は冷たい畳を踏みしめるうちにすっかり冷たくなってしまった。何枚か襖を開き、庭に出る濡れ縁に出る。細かな雪が降っている。池に張った氷の上にもすっかり雪が盛られていて、一面が白い。薄く陽が射していてはいるが、白の眩しさでなにもかもが曇る。椿の葉の緑はくすんで、重たい雪をのせたままゆらゆらと揺れた。その中で、南天の赤だけが鮮烈に目を焼く。眉間を揉む。身支度を整えるために踵を返した。
 身支度と朝食を済ませ、すっかり昼も近くなった時分になって雪は降りやんだらしい。文机に向かって、春になったら手をつけるつもりの治水に関する書類に目を通していると、侍女が茶を持ってきた。そんなに重たくない雪で、これではすぐにとけるだろうと言ってくる。庭に向けた障子を開けさせると、薄い雲の向こうからかすかに陽がさしてきている。確かにぐっと気温は上がったように思う。
 書類をまとめる。熱い茶を一気に飲み干し、うまかったと侍女に言って寄越した。彼女がすっかり下がるのを見送って立ちあがる。縁に出ると、確かに柔い雪はゆっくりととけ始めている。軒先からぽたりと水滴が落ちた。
 屋敷の裏手はなだらかに山に通じる。少しひらけた、陽のよくあたるところには片倉の畑が広がっており、雪の中から白菜がその頭をにょきりと覗かせた。薄い雪の下から黒く濡れた土が覗く。それを横目に伊達は薄い雪を踏む。藁靴はふかふかという感触を連れてくる。
 屋敷の裏手の、影になったところはまだしんとした冷たさを残している。まっさらな雪はまだ誰も足跡をつけていなかった。こそりと笑って藁靴をそこに沈ませる。さくさくと雪を踏む。冷えた空気が耳を凍らせてもう感覚がない。足裏の感触だけがすべてである。睫毛の先で、足元の雪が薄い陽に青く光る。
 そうしてさくさくと足跡をつけていると、ふと目が異物を拾う。薄青いそこにそれがひどく目立つ。ひとの指である。軽く握られた丸い指先は体温を失って白い。その先を辿る。雪になかば埋もれた形で、男が大の字に倒れている。臙脂の小袖に濃い色の野袴をつけている。短く切りそろえられた前髪から丸い額が覗く。頬は少年と青年の狭間らしく緩く削げている。歳のころ、伊達と同じか、少し下であろうと思われた。見知った顔ではない。陽に焼けて赤茶けた髪は長く伸びて雪の上にのたくった。伊達は少し眉をひそめる。
 男のかたわらにしゃがみこみ、そっと手を首筋に当てる。伊達の手よりずっと低い体温の下、手の甲にわずかに血流の感触を知る。おい、と伊達は男に声をかけた。こんなところで寝てるんじゃねえ。男はうんともすんとも言わぬ。間抜けに開いた口元からわずかに空気が流れる。丸く眼球を覆ったまぶたは伊達の声にわずか痙攣した。伊達はそっと息をのむ。かすかに震えた薄いくちびるは伊達の耳に馴染んだ名を一つ吐き出した。伊達は何度か瞬きを繰り返す。聞き間違いかと言えばそうであるとも言えた。しかしもう男の口はひゅうひゅうと息の音を漏らすのみである。
 しばらく男の様子を眺めていた。いつの間にか、頭上はどんよりと曇ってしまっている。薄くさしていた陽は雲にまぎれて消えた。気温がしんと冷えたのを感じる。じきに、男の額に雪の白がひとつ落ちてくる。すぐに体温に溶けて消えた。水滴がこめかみを通って生え際に消える。
 顔を上げると、ちらちらとまた雪が降り始めている。伊達はそっと腰を上げて踵を返した。さくさくと雪を踏む。足跡は伊達の一人分しかない。そのくせ、男の上に雪の降り積もった形跡はなかった。屋敷の裏に男が倒れているなどというはなしも朝からこのかた聞いていなかった。どういう意味か、伊達は図りかねている。しかしこのまま放っておくわけにもいかぬ。ひとを呼んで介抱をせねばならぬだろう。男のなりは農民にしては小ざっぱりしすぎている。常に泥で汚れている彼らの頬と比べても男のそれはつるりとしていた。
 雲が重い。しばらくまた降り続くだろう。

FARGO(111023発行分より抜粋)