取りに来い、と言う。東京の職場に着いたころには九時を過ぎていた。デスクに鞄を放り出し真っ先に受話器を取る。付箋に書かれた番号を押して、呼び出し音は三回であった。かすかな笑い声のあと、アンタ携帯置いてったろと言われる。お察しの通りで……、着払いでこちらにお送り願えますか。
それだと、明日発送になるから着くのは明後日になるぜ。はあ。明日取りに来いよ。ええと……。まあ、アンタの好きにすればいい、来なかったら言うとおりに着払いで送ってやるよ。そうして、少しの沈黙の後に、それじゃおやすみと残して通話は切れてしまう。真田は受話器を置き、ふうっと息を吐いた。イスにぐっともたれかかる。電話をじっと見つめる。そうして、手の中の付箋をパソコンのディスプレイに貼りつけた。見慣れぬ市外局番である。どうやって目的地までの列車に乗ったのかが既におぼろげだ。知らぬ路線、知らぬ行き先、座り慣れない座席のクッション、時刻表は次々と馴染みのない地名をはじき出してゆく。
……藤倉先生のところ行ったんだって? 同僚が真田に個包装のチョコレートを差し出してくる。ひとつ頂戴して、口の中に放り込んだ。そういえば、夕食をとっていない。ものを入れた胃が途端に空腹を訴え始めた。……どんな感じだった? 案外若い方にござった。どれぐらい? 同い年ぐらいか。そうして自分を指さすと、同僚は目をぱちくりさせている。……そっかあ、三十は越えてるかと思ってたけどな……。俺も、と言いさして真田は咳き込む。ミネラルウォーターを喉に流し込んで、俺もそう思ってたと返した。
デスクの上に置かれたいくつかの書類に目を通し、メールをチェックする。何通か返信を書き、データを確認する。そうしているうちにフロアにいるのは真田のみになってしまう。同僚がチョコレートをいくつか置いていってくれた。ペットボトルの中身は既に空である。空腹を通り越して、もうなにも感じなくなっていた。ディスプレイの灯りが目に痛いと思うが、思うだけであまり痛みを感じない。職業病だなと思う。ぐっとその筺体を睨みつけていると、身動きした肘にデスクの上に丸めて置いておいたネクタイがあたって床に落ちてしまう。椅子から身を乗り出してそれを拾いしな、その指の先に青い小花柄の足袋を見る。
背中をつつつと、冷たい汗が逆流していった。足袋は草履をはいてそこにあった。からだを起こすのが躊躇われた。青い足袋は動かない。……政宗殿? そう小さく囁いた。そうしてそっと息を飲む。親指がピクリと動き、そろそろと足袋は踵を返していってしまう。真田の視界からすっかり消える。詰めていた息をゆっくりと吐いた。じりじりと顔を上げるが、そこは確かにいつもの編集部の様子である。真田のデスク周りだけ蛍光灯が煌々と明るい。暗がりに雷の気配はなかった。あの駅で、向かいのホームにあのひとがいたと思ったのは気のせいではなかったらしい。
イスにぐっともたれかかってディスプレイを睨みつけた。背中にかいた汗が冷たい。ほんの一瞬であったように思うのに、随分と時間が経っていた。そこは既にスクリーンセイバーに切り替わっている。幾何学模様がくるくると色を変えた。赤から紫、青、緑、黄緑、黄色、橙を経てまた赤。疲れた顔がそこに映り込んでいる。あの頃の俺はこんな顔をさらしていたろうかと考えて、詮のないことだと思った。握りしめていたネクタイをデスクの上に放る。その人差し指の先を睨みつけた。蝋燭に火をつけるイメージ、または己の血の沸く様子、たましいを燃やす瞬間。
オフィスはしんと静まっている。なんの変化もない人差し指を拳の中に握り込み、ぎゅっと瞼をつぶった。眉間を揉む。キーボードに手を伸ばす。カタカタカタとキーを叩く。
真田はバスに乗っている。車窓に幾筋も銀色の糸が走る。低いエンジンの音の合間に車輪が水を跳ね上げる音が混じる。田舎道を走るのはこのバス一台で、そのバスにも真田一人しか座っておらぬ。雨滴はぬるく額を叩いた。風も強いが、首もとに入り込んでくる空気はそれほど凶器ではない。塗れた靴の中で体温に温められた足先がじんじんと血を巡らせている。
畑が延々と続く中に時折民家の赤い瓦屋根がのぞく。信号機は制御する対象をバス一台以外に見失っている。遠く山並みは緑を萌えさせ始めている。そのなにもかもが雨滴にけぶって境界線を曖昧にした。
真田は膝の上に置いた鞄の中身をのぞく。企画書の入った封筒と、古い単行本が入っている。天にいくつもの付箋の貼られたそれは見慣れたものである。封筒を取り出し、企画書をぱらぱらとめくった。白地にタイプされた文字が泳ぐ。
いつの間にか真田の座っている最後列の一つ前の席に乗客が一人いる。いつの間に乗り込んできたのだろうと思う。バスは相変わらず雨の中を走っている。時計を忘れてしまって時刻が判らない。あの家に着くのはいつだろうと真田は思う。車窓の景色には見覚えがあるのに、不思議とその連続性について考えが及ばない。己の現時点での着地点は曖昧で不連続である。
企画書を封筒に丁寧にしまいこみ、次いで単行本に手をやった。何回かかけなおしたブックカバーは擦り切れてざらざらとてのひらに感触を伝えてくる。表紙を開く。しおりひもは色褪せてしまっている。暗記している冒頭の何行かを諳んじる。……槍からしたたる血がすっかり乾いてしまった頃であった。どこを歩いているのかももう判らぬ。いくさばの喧噪と怒号はもう遠く、真田の歩いている道は馬の蹄跡も足軽どもの足跡もなく平らかである。……。
……真田は目をしばたかせた。この本の主人公は佐和田という田舎武士の次男坊でけして真田と同じ名前ではない。真田はヒュッと息を吸い込み、乱暴にページをめくった。茶色く変色し始めた紙面のどこに目を滑らせても「佐和田」という文字は見つからず、すべて「真田」と塗り替えられている。ねばついた唾を飲む。眼球が乾いているのが判る。瞬きができぬ。バスのエンジンの音はもう遠くなってしまっている。その代わり、雨の音が徐々に音量を上げて鼓膜を叩き始めた。乾いていたはずの槍に着いた血がぽたりと地に落ちた。それと同時に真田の額に雨が一粒落ちる。それをきっかけに、返り血と泥で汚れた顔に大粒の雨が降りかかってくる。天を振り仰いだ。喧噪怒号、硝煙の煙、いくさばに伏しているおとこどものたましいを吸い込んだ天は黒く濁っている。薄墨をぐりぐりと押しつけたような雲がそこを覆っている。濁った視界にまた雨が一粒落ちてきて、砂に乾いた眼球を覆った。槍を握った手の甲で目尻から落ちかかる水滴を拭った。手の甲ですら血と泥で汚れている。饐えたにおいが鼻いっぱいに広がって少し噎せた。まだそういうものを知覚できるこころの余裕があるのだなと真田は思った。いくさばを駆けているとき、真田の感覚はこの手に握る槍の感触と目の先に蠢いている叩き潰すべき命の灯しか知覚せぬ。そうして少し明瞭になった視界がかっと明るくなる。数秒を置いて、鼓膜を雷鳴がつんざいた。よほど近くに落ちたのであろう雷はしばらく真田の脳髄を震わせていた。
バスは交差点で停止している。いつの間にかバスに乗り込んできた老婆二人が、今の雷えらい近かったねえ、と囁きを交わしている。雨は降り続いている。アイドリングストップをしている車内はひどく静かである。真田は膝の上に置いた単行本のページを撫でる。唾を飲む。ページの合間に佐和田、という文字を目に納めてそっと眉間を揉んだ。やがてエンジンがかかる。バスが交差点を通過してゆく。山並みや畑や赤い瓦屋根は連続して途切れることはない。
ひとつ前の席に座った乗客の髪が揺れている。その髪型には見覚えがある。眼帯の結び紐が斜めに後頭部を走る。真田は濁った眼でそれを睨みつける。どうしたって振り向かないだろうそれを睨みつける。その髪が、バスの振動に合わせてではなく揺れる。慌てて真田は自分の膝に目を落とす。身動きしたせいで膝の上に置いておいた単行本が床に落ちる。エンジン音より大きくその音が響く。いつ間にか老婆二人はいなくなっている。雨はやまない。車輪は雨の浮いたアスファルトを走る。その瞬間、カッとあたりが明るくなる。影がまなこに焼きついた。数秒を置いて、雷鳴が腹に響く。……真田?どうした?
ハッと顔を上げた。前の席に座る伊達の髪が、バスが動くのに合わせて揺れる。座席越しに真田を見つけたその目は訝しげにひそめられた。……顔、真っ青だぞ。……寝不足にございます故。伊達は一瞬目を見開いたあと、困ったように笑った。変わり映えのしない車窓を指さし、あと停留所二つだから、と伊達は言う。
……連れ立ってバスを降りた。伊達はことさらゆっくりとバスのタラップを踏む。入れ違いにならなくてよかったと伊達はそっと言って寄越した。バタバタと雨傘が音をたてて、そこから滴った雨が肩を濡らした。水たまりが跳ねて、伊達のチノパンの裾を濡らしている。楠はその葉にたっぷりと水滴をのせて真田を迎え入れた。上がって待てと言って伊達は奥へ戻ってゆく。二回目の訪問で少し心の余裕はあった。東向きで、少し薄暗いあたりを見渡す。靴箱の上には一輪刺しが置いてあり、青紫の紫陽花が生けられている。その脇にメモ用紙とそれを押さえる文鎮。……文鎮?
それがそこに立っている。それを真田は視界の隅にとらえている。伊達の気配はない。だがそこに裸足の足指と黒袴の裾が見えている。こめかみににわかに汗が浮いた。やがて伊達の足音が近づいてくる。……どうした?上がって待てって言ったろ。ゆっくりとした足音は真田の視界の隅のその足に重なって、そうして真田を弾き飛ばす。
車窓にて血煙り(120810発行分より抜粋)