朝は忙しかったのでよく覚えていない。伊達はドアノブからそっと手を離してソファの様子をうかがった。いつもはそこで同居人の真田が寝転がっているはずだが、今日はその限りではない。バイトで遅い日かとも考えたが、横目で確かめたカレンダーにその印はない。伊達も朝それを確認している。だから、今日は一緒に食事ができると思って冷蔵庫の食料の買い足しをしてきたのである。右手に提げたビニール袋は今、途方もなく重たく伊達の右手に食いこんでいる。道中考えていた夕食の献立はすでに頭の中から消え去ってしまっていた。
 ソファは、同居するにいたって買い足したものである。薄いグリーンの、座り心地を最優先して購入したものだった。そこに、白い虎が寝そべっている。サファリパークのCMなどで見るような幼獣ではない。成獣である。伊達はゆっくりと開けたドアに向かって後ずさった。ソファの上のけものは眠っているのか、筋肉の塊であろう体を呼吸のたびに上下させている。……ビニール袋が、柱にぶつかってくしゃりと音をたてた。
 しまったと思ったがもう遅い。手元に落としていた目線をわずかに上げると、凛と顎を上げた虎が伊達をじっと見つめている。うなじと二の腕にざっと鳥肌が立った。やにわに空気が張る。伊達は虎に視線を合わせたまま、じりじりと足を後ろに下げてゆく。虎の耳がぴくりと動いた。太い前足がソファから降ろされ、音もなくしなやかな体が床に立つ。後ろに下げた右足の、かかとに力をこめたその瞬間。あっという間もなかった。虎がタン、と床を蹴って一気に距離を詰める。悲鳴を上げる暇もなかった。腰のあたりに飛びかかられて、後ろにバランスが崩れる。大きく尻もちをついた伊達の腰に虎がまとわりついた。鼻先をぐりぐりと伊達の腹に押しつけてくる。床にビニール袋の中身が散らばって、惨憺たる有様である。大きく打ちつけた腰をさすりながら、訳の判らぬ状況に眩暈を覚えた。虎は伊達に牙を剥くことなく、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
 ……玄関に、真田のスニーカーが散らばっている。なにより鍵は開いていたのだ。そして、これだけ大きな物音をさせているのに部屋から誰も出てこない。最悪の状況も考えられたが、今伊達を組み敷いている虎の毛並みは綺麗なものだし、生臭いにおいもしない。部屋もけして汚れてはいなかったと思う。
 後ろに手をつき、伊達は上半身をようやく起き上がらせた。唾を飲みこんで視線を落とすと、白い虎の、ガラス玉のような眼球にぶつかる。……幸村?小さく同居人の名前を呼ぶと、長い尾が返事をするように玄関の床を叩いた。もう一度大きな声で呼んでみると、虎は床に前足をついて半身を起き上がらせる。そうしてじっと伊達を見つめながら大きな耳を後ろに倒した。
 ……恐る恐る体に力を入れると、素直に虎は伊達の意図を汲んで体を離した。床に散らばった食品をかき集め、ビニール袋に突っ込む。虎はその様子をじっと見つめ、伊達が起き上がってリビングに進んでゆくと大人しくその後についてくる。キッチンで冷蔵庫に食品を詰めている間も伊達の腰や膝の裏に鼻先を擦りつけては離れようとしない。考えてみれば、伊達が帰宅したときの真田の様子にそっくりではある。そう思って虎を見ると、すぐさま虎の目が伊達をとらえた。さっと視線を外す。気が触れていると思う。
 そう思うといてもたってもいられなくなった。手早く食品を冷蔵庫に詰めてしまい。足早にリビングをつっきる。虎がその後をついてくる。音をたてて真田の部屋のドアを開ける。散らかった部屋は昨日、伊達が目にしたときの様子そのままである。ベッドだけはきちんと整えられている。雑誌、CDの類を寄ってベッドに近づいてシーツに手をつけてみる。空気そのままにひんやりとしている。今度は真田の部屋を出て伊達の部屋を確かめる。なにもおかしなところはない。ベッドのシーツは少しだけ乱れているが、それは朝急いで家を出たからだ。ベッドメイキングをした覚えはない。一つため息をつき、トイレと風呂を改めた。やはり変わったところなどない。途方にくれて先程まで白虎が寝そべっていたソファに座りこむと、器用に彼もソファに乗り上げて伊達の横に丸くなる。極力それを目に入れないようにしながら伊達は両手で顔を覆った。
 ブブブブブ、という音がする。携帯電話の振動音である。伊達はなぜか動けずにいる。やがてフリップの開く音がして振動音がやんだ。フリップの閉じられる音。息をつめていた伊達は、そっとてのひらを外して横を見やる。丸くなっている虎の、前足のあたりに真田のものであるはずの赤い携帯電話が置かれている。それで、もう駄目だった。俺は気が触れてしまったのだと伊達は思い、ソファの背に崩れ落ちた。

牙のひと(090823発行予定より冒頭部分を抜粋)