りん、と虫が鳴るのを開けられた障子のそばで真田は聞いている。陽が沈めばもうすっかり夏の気配は失せてしまう、そんな季節になった。澄んだ空気に夕焼けの赤は燃えるほどに眩しい。山の向こうに、最後の咆哮をあげて陽が沈む。そうしたら、東からすぐそばまで迫ってきた藍色がすっかり空を覆い隠してしまう。地平線近く、じりじりと焦げていた月はいつの間にか中空に上がって、白く光った。燭台の炎はすっかり細くなってしまっている。真田の背後から差し込むその白い光が部屋に長く長く影を作った。それを見ながら、空に近い杯を傾ける。傍らに集められた酒はもうすっかり飲み干されてしまっていた。
 思えば、先程まで白拍子の高い声がさんざめき、笛や太鼓の賑やかな宴席であったように思う。それが、どこか暗がりに連れ込まれてしまったか、いつの間にか華やかなおしろいの匂いは遠くなってしまっている。残っているのは酒と、汗の臭いの混じりあった饐えた空気だった。だが、と真田は思う。自分にはこちらのほうが合っている。おしろいや紅の匂いは真田にとってはひどく遠い世界のものだ。奥を持たないまだ歳若の真田には、彼女たちの相手もままならない。それでも真田は見目ばかりはいいから、向こうから寄ってくる。硬い筋肉に覆われた真田の体にべたべたとてのひらをかぶせ、傷んだ後ろ髪にその白蛇のような指を絡める。だがひたすら酒杯を傾けぐっと黙り込んでいれば、そのうちに鼻を鳴らせて彼女たちは離れていってしまう。畢竟、真田の席は遠く末席に追い込まれる。それでいい。俺の居場所はここではない。そう考えながらの酒であるから、宴席はあまり楽しいものではなかった。
 りん、と鳴いていた虫がいっとき一斉に静寂をこちらに押しやってきた。膝の少し奥、畳の目をじっと見つめていた真田はそこでようやく顔を上げる。襖の近くや、柱の影には酔いつぶれたのがいくつも折り重なって手や足を伸ばしている。この大広間で起きているのはもう真田ばかりであろう。からになった杯をおいて立ち上がった。下がってももう咎められまいと、そう思った。
 そうして踵を返そうとしたそのとき、圧倒的な殺気が真田の背中にぶつかってくる。思わず腰に手をやった。だがこの場に得物はない。じっとりと背中に汗を吹きながら、真田はじりじりと振り返った。殺気の出元、広間の奥に目を凝らす。小さな燭台の炎がちろちろと彼の姿を浮かび上がらせた。濃い影が漂っている。真田は一つ、口の中にたまったつばきを飲み込んだ。食道を苦い液体がのろのろと這ってゆく。影が動いた。手招いているように見えた。
 ジッ、と畳の目を足裏が擦る。火のついたようにそこが熱くなる。もう一歩、真田は足を踏み出した。もう一歩、もう一歩。硬い小指の裏が、素焼きの杯を踏む。畳に落ちた小魚の尾を、器に敷かれてあった笹の葉を踏む。途中、まだ中身の入っていそうな朱器を手に取った。たぷん、と揺れる手応えがある。
 酌をせよ、と殺気のもとが言った。薄暗闇に、青い火花が散るようであった。ちかちかと目の先にひらめく。俺はこの殺気を知っている。そう思う。腹の奥、頭の後ろに凝っていた酔気が、火花にあおられ巻き上げられるようにしてすっと晴れてゆくのを感じる。
 丹田のあたりに力を入れ、承知つかまつったと声を張り上げた。いくさ場で出すような声になった。ハッハ、と笑う声が座敷に響く。やがて真田の視界に明瞭に現れた青い影は、伊達独眼竜政宗のかたちをしていた。

アフターダーク/ダークナイト(091115発行予定分より冒頭部分を抜粋)