扇風機が部屋の空気をかき混ぜて、真田の長く伸びた後ろ髪をそよがせている。レースのカーテンがまくれあがって、そこから夏の陽が鋭角にフローリングを区切った。そっとてのひらを伸ばしてその影に触れる。ベランダで伊達が暑いなと呟いている。洗濯物を干し終わって、裸の足裏を床に滑らせた。七分丈からのぞく脛が陽に焼けている。
時計を見ながらそろそろかと伊達が呟いた。レースのカーテンをめくり、窓を閉める。空調のスイッチを操作する。やがて天井近くから冷たい空気が吹き下ろしてきて、真田は少しだけ体を震わせた。それがそのまま、着信の震えになる。伊達殿、と真田は伊達を呼ばわった。キッチンから顔を覗かせた伊達は、短く返事をして真田に手を伸ばす。液晶には、三か月前に真田のアドレス帳に新規登録された名前が表示された。伊達が通話ボタンを押す。そろそろだと思ってたぜ、今どこだ? マンションの前でござる。マジか、ちょっと待てよ。携帯を肩で耳に押し当てて、伊達はベランダへと出てゆく。道路を見下ろし、赤い髪の男が道着姿で立っているのを見て破顔する。
ゴールデンウィーク間近のことだったと思う。伊達の高校時代の恩師から連絡があった。自動車事故に巻き込まれてしまい、入院を必要とするため一カ月ほど休職すると言う。恩師は伊達の担任で、同時に所属していた剣道部の顧問でもあった。彼は伊達に剣道部の面倒をみてもらえないかと依頼し、伊達も先生が言うのならとそれを了承した。早速翌日から、大学の講義を終えて母校に顔を出した伊達は当然のように剣道部の部長と携帯の連絡先を交換した。……伊達先輩の名前は、存じ上げております。赤い髪の男は部室に飾ってある歴代部員の集合写真を指差しながらそう言って寄越した。
それから、その男の名前はメールや着信履歴に頻繁に現れるようになった。伊達のアドレス帳の登録データは多いほうなので、この頻度は異常だと真田は思う。着信履歴がその名前で埋まることもざらにあった。真田はその男ともう何度も顔を合わせている。伊達は基本的に携帯電話を手放さない男だ。真田と同じように後ろ髪を長く伸ばしている。当初は伊達先輩と呼んでいたのが、真田を通じて伊達を呼ぶ声はいつの間にか政宗殿というふうに変わった。
決定的な日はあの日であろうと、真田は考えている。週明けには恩師が復職し、伊達が剣道部の面倒をみるのはその日が最後のはずであった。推測なのは、その日珍しく伊達が真田を部屋に忘れていったからだ。電池切れで意識が朦朧とする中、ガチャリと部屋のドアが開き、二人分の足音が床を踏みならすのを聞いた。政宗殿、という男の声を聞いたところまでは覚えている。そこから先は視界が暗かったこともあって真田には判らない。
それから、男は伊達のマンションに頻繁に顔を出すようになった。週末の土曜日、部活帰りに道着姿のまま玄関ドアをくぐる。日焼けした額をさらしておじゃましますと叫び、汗を吸った道着を伊達に剥かれて風呂場に押し込められた。いつの間にか、タンスの一角に男の服が畳まれてしまわれるようになっている。風呂から上がった男はタオルを肩にかけて、伊達のお古のTシャツに腕を通した。ベッドの上に座り込む真田に目をやって、ニッと笑う。長く伸びた男の後ろ髪が翻る。今日の夕飯はなんでござるかという声が響く。まだ仕込み途中だから向こう行ってろって。その声を聞きながら、真田はカーテンの向こうに目をやる。積乱雲が空に高く積み上がった。その向こうに黒い雲がある。すばやく天気予報を検索し、四時以降の降水確率を確認した。高い数値ではないが、夕立ちが来るだろう。真田の鼻は雨が降る直前のにおいを的確にかぎとった。伊達殿、少し雨が降るかもしれませんぞ。キッチンにそう叫ぶと、菜箸を持った伊達がドアから顔を覗かせた。マジか、でも狐の嫁入りだろ? そんなに降水量は多くないようですが。じゃあいいよ、そんな強い雨じゃなかったら降り込んでこないだろ。政宗殿ー、テレビつけてもいいでござるか? 男は伊達の返事を待ってテーブルの上のリモコンに手を伸ばした。液晶テレビは休日昼間特有の、バラエティ番組の再放送を流している。ゆるゆると黒い雲が近づいてくる。
雨のことを思うとき、真田の胸の、CPUではないところが少しざわつく。胡坐をかいた膝にてのひらをのせてみる。その赤い外装が、雨粒に濡れるところを想像する。真田は二年前の初夏に発売された携帯である。防水機能を備え、軽量とカメラの画素数を売りにした型であった。
ざあっと音をたてて雨粒がベランダのコンクリートを叩いた。男は伊達に言われて窓を閉めている。そうして二人して外を覗き込んでは、目を瞬かせた。にわかに暗くなった空のせいで、部屋の光量が足りない。薄暗い中で、伊達の横顔の際が少し光っている。
ふと、真田と同じようにその横顔を見ている目に気づいてしまう。しかし男のほうは真田には気づいていない。彼はじっと伊達の横顔を見つめていたかと思うと、表の道を走る車が水をはね上げる音に従ってまた外に視線を向けた。……すごい雨ですな。もうちょっと経ってやまなかったら洗濯物とりこまねえとなあ、ああめんどくせ。
がしがしと髪をかいて伊達はフローリングに転がる。暗くなった床にテレビの光が映り込んだ。伊達の手がベッドの上に伸びて真田を掴む。今日、雨降るなんて言ってたっけ? 真田は軽く首を振る。狐の嫁入りでござろう、先程まで晴れておったことだし、すぐにやみましょう。窓に背をもたれさせて男が軽く笑った。
ナイトフィッシングイズグッド(100919発行分より冒頭部分を抜粋)