テーブルに二つ置かれた弁当箱の包みをトートバッグに入れる。スリッパがキッチンの床を叩く。戸締まりとガスの元栓を確認し、炊飯器の予約が十九時になっていることを確かめる。教科書のたぐいはほとんど教室に置きっぱなしだ。課題の出ている問題集とプリントのファイルしか入っていない鞄はそれなりに軽い。そこに弁当二つ分の重みが加わる。伊達はそれを肩から提げ、ローテクのコンバースを履く。照明をすべて落としてしんと静まった部屋を見渡し、ドアを開ける。それなりに築年数のいったマンションの階段を四階から駆け降りる。コンバースが鉄筋コンクリートを叩く音に、どこかの部屋でドアが開く音、集団登校のために集まったこどもの歓声、早朝の鳩の鳴き声が重なる。制服のポケットから自転車の鍵を取り出し、手の中でチャリチャリと鳴らす。伊達が通うのは、自転車でのんびり走って三十分の位置にある隣町の高校である。受験までまだ一年と少し、高校二年のふわふわとした時期に迎えた秋晴れの日であった。
学校に着き、教室に向かう前に保健室に寄る。予鈴が鳴るまでまだ三十分以上ある校舎はまだひとずくなで、スリッパがリノリュウムの廊下を叩く音が大きく響く。しかし廊下のつきあたりにある保健室はすでに活動を始めていた。養護教諭の朝はいつも早い。戸をからりと開けると、少し明るい髪の頭がデスクに向かっているのが見える。はよーございまーす。形ばかりの朝の挨拶をその背中に投げかけると、椅子がくるりと回った。……おはようー、今日もご苦労様。それに頷き返して、隅の冷蔵庫に鞄から取り出した弁当箱を一つ入れる。もうすっかり気温も低くなって過ごしやすい気候になったが、用心しておくに越したことはなかった。職員室には電子レンジも完備されている。今日のおかずは? ……あんたが食べる訳じゃねーだろ。おや、つれない。ニヤニヤと笑み崩れていた養護教諭は軽く肩をすくめてまた椅子をくるりと回した。伊達もまた保健室を後にする。少しだけひとの気配を濃くし始めた校舎の中を足早に歩く。伊達の教室は、管理棟から渡り廊下を歩いて一つ目の棟の二階だ。中庭の土に、色抜けした落葉樹の葉がひらひらと落ちた。
こういう習慣を続けてもう一年は経つ。伊達が登校時に保健室の冷蔵庫に入れた弁当箱は昼前にある国語教師の手に渡り、昼休み後にはまた保健室に届けられる。伊達は帰りしなに保健室に立ち寄り、弁当箱を回収する。そのやりとりに一切の言葉はなく、すべてシステマチックに行われる。だが時折、放課後に空の弁当箱を保健室に下ろそうとする国語教師と鉢会うことがある。そういうとき、伊達の呼吸は少しだけ止まる。……国語教師の名前を、真田幸村という。
真田は伊達の住んでいるマンションの、隣の部屋に住んでいる。伊達が叔父と二人で暮らしているその隣に真田が引っ越してきたのはもう随分と前だ。伊達はまだ小学校に入ったばかりだった。真田はもうそのころには今の高校で教員の仕事をしていた。よく覚えている。引っ越しの挨拶に訪れたときの古めかしい言葉遣いと、実直そうな強い目。……仕事の関係で、幼い伊達を残して家を留守にしがちの叔父が、緊急の連絡先を伝えてなにかあったときはよろしくお願いしますと真田に頼むのにそう時間はかからなかったと思う。そういう家族ぐるみのつきあいを、もう十年近く続けている。……伊達が真田の勤めている高校に進学を決め、一人暮らしの彼のために弁当を作り始めてもう一年と少し。よく覚えている。合格発表の初春の日、受験生との書類の受け渡しを担当していたのが真田だった。伊達の姿を見つけて破顔した目尻の皺、おめでとうござりますると伝えてくる低い声。
……徐々に教室の濃度が高くなってくる。伊達は読み終えたマンガ雑誌を後ろの机の上に置く。窓際の席は開け放たれた窓からの秋風にさらされている。渡り廊下を走る一年生の制服の背中。特別教室と一年生の教室が入っている棟、二年生と三年生の教室のある棟、管理棟は川の字のように平行に並ぶ。渡り廊下がその三つの棟を貫くようにして二つ設置された。やっと洗濯なれし始めた制服の背中の中に、スーツのそれを見つける。……真田は一年生のクラス担任を務めている。頬杖をついてそれを眺めた。スーツの背中が渡り廊下から校舎に入る。一瞬だけ姿が見えなくなる。そして、廊下側の窓に再び現れる真田の横顔。廊下をゆく生徒たちに声をかける様子。伊達の視界から消えて教室に入ってゆく背中。休んでるやつはいないなー。びくりと肩をはねさせた。いつのまにか伊達のクラス担任が壇上に立って出席簿を開いている。慌てて日本史の教科書とノートを引っ張りだした。……後ろの席の長曾我部が、外でなんかあったのか?と問いかけてきた。伊達の背中に隠れるようにして雑誌をぱらぱらとめくっている。いや、別に、なんもねーけど。日本史の教科書をめくりながら、ふと視線をもう一度外に向ける。例の教室のドアの開かれた様子はない。真田は一年生の国語を担当していた。畢竟、学年担当も違う教員と触れあう機会はほとんどない。国語教員は社会や理科などの教科担当と違ってその根城は職員室だ。普通に、校則に則って生活していれば職員室に向かうことはほとんどない。
一度、問いかけられたことがある。お前の弁当ってさ、なんで全部端っこばっかなの? つい、口に入れようとしていた出汁巻き卵を机の上に落としてしまった。卵焼きもそうだろ、揚げ物とか、シャケの焼いたやつとかもそう。……親の分も作ってるからだって。親じゃなくてお前が作ってんの? ……朝とか、忙しいしな。ふうんと言いながら焼きそばパンを頬張るクラスメイトから目をそらす。実際には、帰りも遅く昼食の時間も変動する叔父に弁当を作ることは月に数回しかなかった。そうでなくとも今はほとんど会社に泊まり込みで、マンションには帰ってきていない。伊達は灯りのついていない部屋に六時ころ帰ってきて、一人分の夕食を作り、隣に住まう真田の帰宅する音を聞き、課題を済ませてからひとり眠る。寂しいという言葉すら思い浮かばないような生活だ。……弁当を作ることしか、彼との糸が残っていないのではない。それは決して悲観的なことではない。米粒一つ残さずきれいに平らげられた弁当箱を開けるとき、伊達の胸にこみあげてくるのはほっとするようなあたたかいものであると同時に、泣きたくなるような呼吸の苦しさでもあった。
さよならせんせいまた明日(101114発行分より冒頭部分を抜粋)