冬の初め、少し朝晩が冷えると感じる季節である。山紅葉が葉色を変えて障子の向こうを彩っている。陽のまだ薄い時分だが、真田はパチリと目を覚まして常ならぬ天井を見つめた。くにざかい近い湯治場である。手早く身なりを整え、庭に降りた。背の低い常緑樹の植わっている庭を抜け、井戸端で顔をざぶざぶと洗う。顎の先から滴る水滴はきりりと冷たい。指の先からじんじんと冷えていくかたわら、起き出した己のからだが歯車を動かし始めている。じきに寒さも感じなくなるだろう。……顔を上げる。庭木の隙間に人影を見た。残された気配から、あの男だろうと真田は思う。つぶれた右目をさらしで覆った男。
 信玄公の知己である和尚に連れ添ってこの辺鄙な湯治場に来ている。真田の背の半分ほどしかない小さなからだの僧は、それでも真田の四倍もの年月を肩に乗せて圧倒した。少し白く濁り始めた目でじっと見つめてくる。もごもごと動く口元から、真田はようやく、この乱世では仕方のないことという言葉のみを拾い上げた。その目でなにを見てきたというのかと真田は考えている。……湯は、目によく効くという。
 三日前、手代が真田にあてがわれた部屋をおとなった。突然の客人があったと言う。若い男連れが二人。旅の途中で、目に効く湯があると話を聞いて足を伸ばした、何日か宿をとれないだろうか、そういう話をしたという。なるほど、男の一人は右目にさらしを巻いている。
 雰囲気からして商人のたぐいではございませんなと男は言う。といってそのあたりの貧乏侍とも違う、窶してはいるが着ているものはそれなりのものに見えまする、あれはどこかの御武家様に違いませんでしょうな。……有り体に言えば首実験をしろというのである。向こうがお忍びであってもなにか不作法があっては具合が悪い。ここで丁重にもてなしておけば、のちのちいいはなしになるかもしれぬ。そういうことである。そのようなたくましさは真田には馴染みがない。……しかしながら某、ひとの顔を覚えるのは不得手にござる。そう言うと手代はかかと笑った。武田の陣中のみなさまのお顔は覚えておりましょうや。
 しかして、庭を挟んで見初めた男は真田には見覚えがなかった。若い男である。真田と同じぐらいか少し上か。垂らした前髪でさらしを巻いた顔の右を覆っている。なるほど、すがたや顔のつくりを見ると商人や土にまみれて暮らす平侍とは確かに違う。しかし柱に背をもたれさせ、ぼんやりと庭の紅葉を眺めている様子はいかにも気配が薄く、武家と言っても戦にはまだ出たことはないのだろうと真田に思わせた。す、と顔の半分ほど開けた障子を閉めようとする。そのとき、不意に男が身動きした。首を巡らせ、濡れ縁に身を乗り出す。真田はさっとその方向に目を滑らせた。男が一人、渡ってくる。こちらも若い。刈り込んだ髪に上背のある男である。額に、大きく横文字に傷が走った。その傷が動く。
 す、と真田は障子から身を離した。感づかれたか。傷の男と目が合ったような気がした。大きく息を吐く。気配を殺すのはあまり得手でない。片膝を立てた指の先、畳の目をじっと見つめた。あの瞬間、傷の男が発したのは確かに殺気であった。……武家であるのに違いはない。だが武田の領内のものではない。上杉か、それとも奥州羽州か。いずれにしてもあの傷の男はいくさばの空気を知っている。そう思う。
 忍びは出払っていた。僧の付き添いに戦忍びを連れて回るほど子供でもない。だが呼び寄せようか真田は迷っている。あの男二人の素生が気になる。
 ……パチリと盤面に駒をさす。一刻程、こうして盤面に向かっている。正座した足の裏の感覚がもうほとんどない。胡坐をかいた和尚はふむと顎を撫で、長考に入った。座ると和尚はいかにも小さくなってしまう。その禿頭を眺めおろしながら、これで何度目の長考であろうと真田は考えた。庭に目を移す。金木犀の香りが部屋に流れ込んで、甘ったるいにおいに頭の奥がジンと痺れた。すん、と鼻を鳴らす。退屈か、と和尚が言った。はっと首を巡らせ、滅相もないと言わんとしたところにそうでもないという声がした。濡れ縁にさらしの男が立っている。そもそもここはそういう場所にて。男は低くそう言うと、将棋盤のかたわらに胡坐をかいた。真田は小さく頭を下げ、盤面に目を落とす。視界に入る男の藍染が鈍く目の奥を刺す。和尚はもう一度顎をさすり、その皺だらけの小さな手を盤面に伸ばした。パチリ。
 戦で失くされたか。いや、幼いみぎりに病を患いましてな。もごもごと男と和尚は会話を続けている。それらの音は真田の左の耳から右の耳にとうとうと流れ去るのみである。膝に置いていた手を上げた。パチリ。今度は素早く和尚の皺くちゃの指が動く。パチリ。膝の上の手を握る。くちびるの裏をそっと噛んだ。息を吸って吐いてをなんどか繰り返したのち、駒を指で挟み滑らせた。パチリと駒をさそうとしたその刹那、さっと手が真田のそれを制す。さらしの男の手である。指は節くれだち、てのひらは分厚くかたい。……口出し無用。静かに和尚が呟いたが、男はニヤリと笑み崩れた。しかし、これではいかにも勝負になりませぬ。くっくっと喉を鳴らすので、真田はすうと肩を膨らませた。男の手を払い、パチリと駒をさす。あーあ、と男が小首を傾げた。
 ……その二十手先で、真田は如何とも動けなくなった。長考の果てに頭を下げる。さっと和尚は藁座を立った。今度は俺が。横に座っていた男がその藁座に座る。間近、正面で見た男の顔は先だって障子の隙間から見たそれと比べていかにも鋭い。鋭角でできている。そげた顔の右半分はさらしで覆われているものの、その肌はつるりとしている。土に汚れたことのない色である。真田は先程の男のてのひらの感触を思い出している。戦に出たことのない、というのは撤回しよう。刀を握り慣れた男の手であった。
 源二とでもお呼びくだされ。言って、真田は頭を下げた。ご覧のとおりの未熟者にて、かの方の代わりにもなりませんでしょうが。なに、筋はいい。男は顎を撫でながら足を崩して胡坐になった。パチリパチリと駒を並べ直す。宜しければ御名を。……藤次。
 つるりと秋風が真田の額を撫でた。金木犀の香りが肺の腑いっぱいに広がる。紅葉の葉が濡れ縁に落ちた。黒光りする床にいかにもそれは映える。

病葉拾い(110109発行分より冒頭部分を抜粋)