ダイヤモンドのすみでノックが続いている。真田はそれを尻目に黙々とボールを磨いている。ぼろ雑巾の中で縫い目のほつれたボールはきゅっと鳴って、真田のてのひらからこぼれ落ちる。それを追いかけて掴みとると、バケツの中に放り込んだ。既に影は長く空気も色味を帯びている。ずいぶんと陽が長くなったと言っても、もうそろそろころあいだ。Tシャツの下で腹が鳴りそうな気配がしている。
 厳しいところに転がったボールを掴み損ねて前田が土の上に寝転がっているのを、長曾我部が笑いながら見ている。その肩でバットがポンポンとはねる。もういっちょ、と叫びながら転がったボールは、今度はきちんとグラブの中におさまった。ノックを終えた前田はその場にうずくまって大きく肩で息をしている。
 前田は野球初心者である。高校時代はサッカーをしていたらしい。バイト先の同僚である長曾我部がその体格の良さを気に入ってこの草野球チームに誘った。確かにあの男のバットを振るスピードはたいしたものだ、と真田は思う。当たれば大きい。だがあまり当たらない。それを鑑みた長曾我部が、バットを振りながらオンナの尻だと思えよ、と言っていた。一方で前田はおんなのこをこんな乱暴に扱えないでしょ!とうまいのかうまくないのかよく判らない問答をしている。そのとき、隣で毛利の眉が盛大に寄っていたのであまりうまくないのだろうと真田は判断した。
 やっと終わったか、とトンボをかけ終わった毛利が真田の傍らに座り込んだ。最後の一個のボールを掴みとって、雑巾で磨きあげる。バケツにそれを放り込み、後片付けを始める。前田の居残り練習ももう終わりである。ノックをしていたあたりにトンボをかけ直していた二人が戻ってくる。その影が長い。川面が赤くぎらぎらと光っている。真田は鼻の下にかいていた汗をTシャツで拭って、すんと鼻をすすり上げた。
 週一ぐらいの頻度で集まれる者だけで集まって、こうして河川敷のグラウンドや公園で練習をしている。予定が合えば他の草野球チームと試合をする。終わったら飲み会をやるときもあるし(実際それのみに参加する者も多い)、こうして初心者である前田の練習の面倒をみたりする。放課後練習は前田が言い出したことである。この男はこの男でなけなしのプライドというものがあるのだろう。
 ボールやバットのたぐいを前田のバンに積み込み、汗くさいからだをシートに沈み込ませた。窓を開ける。わずかな風が真田の額を叩く。眠いな、と真田は思う。今日は朝からのバイトから、直接練習に参加していた。疲労が足の先からじわじわとからだを回っている。助手席でぎゅっと目をつぶり、行く手に眩しい夕陽を遮断した。エンジンの始動するときの振動が低く響いてそれがからだにも伝染する。……もう終わったかだってよ。携帯のフリップを開閉する音とともにそう言う長曾我部の声がしたが、真田の感覚器はもうほとんど閉じている。携帯のフリップがかしょかしょと閉じられる音、前田がそれに答える声。堤防を走るバンはじきに市街地へと抜ける。対向車がうなりをあげる。そのエンジン音は一瞬大きくなってすぐにかき消えた。温い風が真田の額を叩く。はたはたと前髪がひらめいて、薄くかいた汗を乾かしてゆく。
 あ、いたいた。前田はそう呟いて、ハンドルを切る。反動でシートに体を押しつけられ、真田は薄く瞼を開ける。コンビニの駐車場である。そのままぼんやりと薄目を開けたままでいたら、バンの後部座席の開く音がする。ビニール袋がかさこそと鳴る。……こいつ、寝てんの?
 その声は長曾我部でも前田でも毛利でもなく、はっと真田はからだをかたくした。きしみながら開いたまぶたの向こうに、ぎょっとした伊達の顔がある。彼は二三度瞬きを繰り返して、起きたかとのっぺりした顔で真田に言って寄越した。そうして目の前にうまい棒が振られる。もうこれしか残ってねーぞ。それを受け取りながら、真田はまじまじと伊達の顔を見返した。彼を見るのは実に久しぶりである。伊達は先週や今日の練習には顔を出していなかったし、最近は早朝のジョギングもすっかりやめていた。バッティングセンターにも姿を見せなかったので、課題やバイトかなにかで忙しいのだろうと思っていた。どうしたのかと訊こうにも、真田は伊達の携帯の連絡先を知らない。
 ぼんやりと忝ないと呟くと、伊達はぐっとしたくちびるを突き出した。やっぱ寝惚けてやがる。そう言って助手席をのぞき込んでいたからだを引っ込ませる。それにつられるようにして真田は後部座席に向けて首をひねった。……最近は、お忙しかったのですか。
 その向こうで、伊達も毛利も長曾我部もきょとんと真田を見返している。しゃくしゃくとスナック菓子を咀嚼する音がその間を埋めた。言ってなかったっけ。なにをでござろう。あれ、こいつに言ってなかったの? 慶次が伝えたと思ってた。俺も。え、元親言ってなかったの? 言ってねえ。ぱちぱちと瞬きをしていると、伊達がおもむろに左手を挙げた。パーカーから伸びたそれは指先だけを残してぐるぐると包帯が巻かれている。ちょっと折れただけだから。そうなんでもないふうに言って、伊達はうまい棒をすべて口の中に押し込んだ。
 ……いつ。一週間ぐらい前か? 何故。自転車で走ってて原付とぶつかった。腕だけで? まあ特には。助手席からからだを乗り出したさき、伊達はもそもそとスナック菓子を咀嚼しながら真田にそう答えた。いくぶんか鼻白んだ様子で、眉根が寄っている。食べ終わったパッケージをくしゃくしゃと丸めてビニール袋に放り込むと、顎をあげて早く出せよ慶次と声を上げた。しかしエンジンが始動する様子はない。前田はまだしゃくしゃくとうまい棒をほおばっている。……気をつけられよ、そなただけのおからだではないのですぞ。
 盛大な音をたてて一番後ろのシートに転がっていた長曾我部がペットボトルのお茶を吹き出した。真田はぐっと眉をひそめる。運転席で前田もまた肩を震わせているのが横目に判った。毛利は知らぬふりで窓を向いているが、右手で口を押さえているのが鏡面になったそれで判る。伊達は、左目をぐっと見開いて顎を引いたかっこうである。そうして、じきに緊張させていた肩を解いた。……変なこと言うんじゃねーよ。変なことではござらん、来週また試合があることはご存知であろう。俺の代わりなんていくらでもいるだろうが、だいたいたかだか草野球になにマジになってんの?
 反駁しようとした真田に向かって伊達は右手をあげた。そっぽを向いた首に走る一筋の骨の様子が真田の目に映る。一つ大きなため息をついて伊達はシートから腰を上げた。乱暴にバンのドアが閉じられる。ひねっていたからだをもとに戻してみれば、コンビニの駐車場から伊達が足早に出てゆくところであった。包帯の白がちらちらと目の先に散って、真田は何度か瞬きをした。前田がハンドルにからだを預けて、追いかけないのと訊いてくる。重たいからだをシートに沈ませて、真田は前方をにらみつけた。交差点の信号が変わり、彼の、茶色のパーカーが横断歩道を渡ってゆく。じきにそれも、夕暮れの雑踏に紛れて消えた。

晴天微風、野球の日2(110503発行分より冒頭部分を抜粋)