なんか叫び声が聞こえたと思ったら、アンタか。男は、いや伊達は編み傘を頭から外して小脇に抱えた。濡れていたのだろう鼻の下を袖口で擦って、一息つく。真田はぐっと息を飲んで、常より視線が上にある伊達の顔を見つめた。……こんなところでなにしてやがる、道にでも迷ったか、馬はどうした。きょろきょろと真田の周りを見渡して、小首を傾げてくる。そうしてぎゅっと眉をしかめた。びしょぬれじゃねえか。真田は一つ二つ瞬きをして、まさむねどのと呆然と呟いた。
「某が誰かお判りになられるか」
 お前みたいなやつが、この世にふたりといねえだろうよ。呆れたようにハッと笑って、真田の額に手を伸ばしてくる。毛皮の上に散った滴が伊達の指を濡らした。
「某の言葉も?」
 伊達はぐっとしたくちびるを突きだして、なにごとだと呟いた。それを受けて、改めて自分の姿を振り返る。からだに流れる黒いたてじま、尻から生えている長い尾、太い前足と後ろ足……。なにより視線の高さが違うというのに、伊達はそれを気にした様子はない。だが、このようなけものを前にして臆することなく知己にでも話すかのような口ぶりで喋りかけるというのもおかしなはなしだ。
「ああもう、なにがなんだか……」
 そうして首を振ると、六文銭がチャリチャリと鳴った。今となっては、それが真田を真田たらしめているひとかけらになってしまった。……だから、なんだってんだ。呆れた顔で伊達が真田を見下ろしている。真田はそっと首を振る。
「某にも、なにがなんだか」
 いや、俺にはお前がなにに悩んでんのか自体判んねえんだけど。言って、伊達は小首を傾げて頭をかいた。……雨、もう止むな。見上げれば、先程まで黒く空を覆っていた雲はだいぶ薄くなってきていた。白く光る陽が透けて見える。雷の気配もない。真田はからだを震わせて、毛皮に散った水滴を払った。それを見た伊達は笑いながらけものかお前はと言う。まさしく、そうだ。けれども、どうにもそれが伝わりそうにない。
 ……伊達が歩きはじめるのに従って、真田もその後を追った。湿気がかなわないというふうに髪をかき混ぜている。川辺の下草をさくさくと踏む。時折ちらとその川面を覗きこんだ。しかしそこにあるのは、すくと伸ばした背に蓑を負った青年とそれについて歩くけものがあるのみである。はあと息をつく。そういうことをなんどか繰り返すうち、とうとう伊達が眉をひそめて真田を振り返った。……だから、なんなんだって訊いてるだろ辛気くせえな。真田もまたぐっと伊達を睨みつける。訳が判らないのはお互い様だ。
「……政宗殿には、某が真田幸村に見えるとおっしゃられましたな」
 伊達の眉間の皺は緩まない。真田は視線を己の前足に落とした。振りかぶればひとの頭蓋など一振りで粉砕できるだろう大きな前足。
「某には、某が虎に見え申す」
 ……しばらく、沈黙があった。恐る恐る顔を上げると、伊達はその左目を真ん丸に見開いて真田を見つめている。その目が何度か瞬きをした。……は?
「このような前足では槍も持てぬ」
 そうしてその前足を持ち上げた。返すと、桃色の肉球がある。鋭い爪がそこから伸び出た。……はっとする。自分で言ったその言葉に、驚くほど打ちのめされている。このような姿では、ろくにいくさばたらきもできぬ!牙ががちがちと打ち鳴らされた。喉から不穏なうめき声がこぼれ出る。目の先に火花が散ったかと思うと、それらが次々に焔に変じた。空気中の水気などものともせずに燃え上がる。熱せられた空気はゆらゆらと揺れて視界を歪ませた。
 違う意味で火花が散った。脳天を襲った痛みは伊達の手によるものである。思わず地面に伏せてぐうと呻く。見上げれば、伊達は脇差の鞘を手に持って呆れた顔としている。うぜえ。一言吐き捨てて、その脇差で肩を叩いた。ともった炎が次々と消えてゆく。目の先で、伊達の足元が踵を返した。おい、置いてくぞ。そっけなくそう言い捨てられて、その踝は遠くなっていってしまう。いまだにじんじんと痛む脳天に顔をしかめながらからだを起こした。のろのろと前足を運ぶ。幅の大きなけものの足はじきに伊達のそれに追いついた。
「信じておられませんな」
 信じる馬鹿がいたらお目にかかりたいもんだぜ、ああ、ここにいたか。おどけた口調はわずかに真田の神経を逆撫でする。
「某とて、到底信じられぬ。夢かとも思うたが、貴殿が現れたともなるとどうもそうではないらしいですな」

霧中山月記(110812発行分より抜粋)