招き入れられた部屋の明るさに目が眩んだ。ここのところ薄暗い部屋にこもりきりであったし、ここに至るまでの道行きは始終薄暗かった。漸く瞳孔が働き始めたころには目の前に拘束服でがんじがらめにされた男の姿があった。鍵を開けた看守が腰掛けた男の後ろにまわり口枷を外す。それで夜神に目配せして退出しようとするのを、男が呼び止めた。目隠しも外せと言う。夜神は彼の声が割と通ることに感じ入り、ついでそのものいいに眉をしかめた。話をするときは相手の目を見るものでしょう。まるで小学校の教員が児童に言いきかせるときのような口ぶりで男は看守に口をきいた。数秒の間、看守は逡巡しているようだったが、夜神がそうして下さいと言うのでしぶしぶと言った様子で男の後頭部に手をかけた。開けた目は黒に塗りつぶされている。下瞼のくっきりとした隈が彼の目を際だたせていた。病人のように顔色が悪いので、彼の全てが無彩色で構成されているように思う。いや、過剰に照明のたかれたこの部屋自体がそうなのだ。鮮やかなはしばみ色の髪と目の夜神こそここでは異端だ。
 看守は彼の目隠しをとったあと、どこから持ち出してきたか、パイプ椅子を白と黒の男の正面ニメートルのところにおいた。ごゆっくりと言って出ていく。夜神はもう一人の異端の男を惜しむような目で見送った。ドアがゆっくりと閉じる。振り返ったそこに座る男は夜神のそんな様子をじっと見ていたらしく、夜神が彼に目を合わせた途端に口元を緩めた。
 座ったらどうですか。客人にソファをすすめるような口ぶりだ。夜神はうなずいてそれに応じ手元の鞄からいくつかの書類を取り出した。男の名前は竜崎と聞かされていた。夜神が顔を上げた瞬間、竜崎の口が開きそう呼んでくれと言う。それで、あなたは?名前を問われているのに数秒間気づかなかった。
 夜神月と口の中で繰り返して、竜崎は洒落た名前ですね、と言う。洒落のような名前だとは重々承知している。それを理由に両親を恨むほど子供でもない。夜神は竜崎に、これから話す事件についていくつかアドバイスを貰いたいと告げ手元の書類に目を落とした。途端、竜崎が夜神を呼ぶ。
 夜神くんは映画を見ますか。……最近はさっぱりですが。羊たちの沈黙という映画は?ああ、アンソニー・ホプキンスの、レクター博士ですか。ええ、あなたがクラリスでは色気がないですが。夜神は僅か憮然として竜崎を見やった。確かにあの映画の冒頭に似た状況ではあるが、ジョディ・フォスターになぞらえられては堪らない。恐らく竜崎は映画のシナリオ通りに進めたがっている。夜神のプライベートを交換条件にするというやり方だ。今までもこういったことはあったと聞いています、その度にあなたはこうしているのですか。いいえ、ただの警察官のプライベートに興味はありません。竜崎は夜神が正しく意図を読み取ったことに満足してか、じとりと夜神を見つめ破顔した。夜神を夜の神と書かせる姓はそうそうありません。夜神の父親もまた警察官だが父親もまた、彼に関わっていたということか、夜神は彼の一方的な興味がそれに起因すると片付けた。再び書類に目を落とす。
 上からは必ず私の見解を聞き出してこいと言い含められている、違いますか?ですが、あなたに喋るプライベートなどなにもない。この部屋はカメラで監視されています、もう一度言いますが、あなたの仕事は事件に対する私の見解を持ち帰ることだ、違いますか。夜神が喋らなければ話を聞く気はないということだ。夜神はいっそすがすがしい気持ちで男に目を合わせた。白と黒の男は表情を変えずじっと夜神を見つめている。
 申し訳ないが僕にも話したくないことの一つや二つはあります、答えたくないという返事を一回だけ許してくれるのであれば。竜崎は前にのめっていた首をいくらか引き、満足そうに口だけで笑った。
 上からは全て口頭で説明するように言われていた。書類の提示は認められていない。それを竜崎に確認すると、それで結構ですと言う。住宅地からほど遠い道沿いの藪に打ち捨てられた遺体について。遺体は劣化が激しく死後少なくとも二三ヶ月が経過。コンビニで購入可能な透明なポリ袋に包まれていた。五六歳程度の女児。残存する皮膚に虐待の様子は見られず。殺害されてから遺棄された模様。近隣に同年代の女児の捜索依頼は出ておらず。治療の跡のみられないひどい虫歯。
 夜神はそこで顔を上げた。ここまでで、印象をお聞きしたい。随分と雑。他には?身内の犯行。竜崎はそれで口をつぐんでしまう。それでは夜神くん、あなたは今まで挫折をしたことはありますか? 竜崎が前もって夜神を知っていたとは考えにくい。父親を知っていたとはいえ彼がここに入ったのは数年前と聞いた。知っていて聞いているのならば随分といやみな質問だ。……自慢ではないですが。なるほど、幼い頃から神童と称えられ、それでいて周囲の人望も厚く、国の最高学府を卒業後尊敬する父親を見習って警察官、ですか、眩しいほどですね夜神くん。僭越ながらあなたの経歴も素晴らしいと思いますよ、先輩。竜崎は一年だけ東応で学び、その後海外の大学を転々としている。資料一枚に羅列されたその一行一行は、一分野にとどまらず多岐に渡った。イギリスでケンブリッジに学んだかと思うとその次にはMITに留学している。
 身内の犯行、とは?若い母親、貧しい暮らし、食事はジャンクフード、出生届が出ていない可能性もあります、故に医者にも連れていけなかった。虐待の様子はありません。では母子二人、それでも幸せな暮らし。第三者が?
 目をつぶっていた竜崎がその黒目をのぞかせる。夜神くん、あなたは今日ここにくることに懐疑的だった、違いますか?夜神は手元の書類に汗の滲み始めたのを知る。この程度のことならば誰でも思いつく、あなただって可能性の一つとして考えていたはずだ、今だって私の話を聞いて少し落胆している、監獄の奥底に居座る稀代の犯罪者とて僕の思考能力を越えられなかった。
 お言葉ですが勘ぐりすぎですよ、大変貴重なディスカッションをしていただいていると思っています。竜崎が少し身動きした。夜神は少しだけ身構える。拘束服を着ているとはいえ油断のできる相手ではない。両手を戒められてもその犬歯で警察官の頸動脈をかみきった相手だ。失礼、この姿勢があまり好きではないので。椅子の下の足をぶらつかせて竜崎は笑む。今あなたは自分がここに使わされた理由を考えている。……質問ならばこちらが先です。いえ、私の独り言です。夜神はパイプ椅子の背もたれに背を預け、目の前の犯罪者を睨む。あなたはいつも周囲の遅れに苛立ってきた、あなたの優秀さに周りは賛辞を送るばかりで誰も追いつこうとしてこない、尊敬すべき父親さえ最近は老いを感じさせるばかりだ、幼いころに見上げるばかりだった父親の姿も今やちっぽけな存在でしかない。夜神は膝の上の手を組み替えた。照明のたかれて眩しいばかりの部屋の中で竜崎の恰好は今にも溶けそうであるのに、その輪郭は確固としていてゆるぎない。その顔の中心の黒く丸い点が、夜神の奥底をえぐる。あなたは孤独だ。
 ……カウンセリングを受けるほど参ってはいません、ディスカッションの続きを。竜崎は首を少し傾けて左の中空に目を向ける。この犯行に整合性を求めてはいけません、やっつけ仕事でちぐはぐだ、母親の恋人か父親。なぜ?遺体を載せてある程度移動できる手段が必要です、……厳格な父親、公務員、融通がきかない性格、なかば勘当同然に家出した娘、私生児の存在を知って逆上する父親。
 竜崎は空中にとどめていた目を夜神に向ける。小首をかしげたまま口元を緩める。正解でしょう?
 夜神は手元の資料を握りつぶした。
 出入り口までの廊下を看守の後ろにつきながら夜神は歩く。看守は疲れた顔をしている。年相応に刻まれた皴が彼の顔の陰影を濃くした。開かれた出入り口から淡い光が漏れている。ここに来るときは曇天だったのが、いつの間にか太陽が出ていたらしい。夜神はきつく締めたタイを緩めながら左手首の時計を見る。薄暗い廊下を歩いてきた目にはその照り返しが眩しい。
 近いうちまた会うことになるでしょう。まさか。夜神が竜崎に提示した事件は確かに一ヶ月前に容疑者が確保された事件だった。竜崎の言うように子供の祖父の犯行である。解決済みの事件についてその解決のためのコメントを求める意味などない。上司の意図など知れている。恐らく今までに何人もあの男にこうしてディスカッションの相手をあてがってきたのだろう。
 再び目隠しを受けながら竜崎は言った。むしろあなたはまた来たいと思っている、違いますか?答えたくありませんと夜神は言った。ふふと笑って竜崎は口枷を受ける。照明の落とされた部屋の真ん中で竜崎はその輪郭を滲ませ始めた。

目を閉じて牙を研ぐ(070520)
キリタニさまリクエスト
「ノートを拾わずに真っ直ぐ成長して、でも少しずつ微妙に歪んでいってしまった月。
ワタリに出会えずに真っ直ぐ犯罪者になってしまったL。どこかで出会うとしたら」