書き物をしている右手のほうで、せわしなく黒髪が動く。デスクの下から乱雑につっこまれたチラシをつまみあげては配布されたレジュメの上に重ねていった。サークル勧誘、書き損じのルーズリーフ、社会派サークルのプロパガンダ、自主映画のフライヤー、次々と広げられた紙屑にテキストが埋もれていく。夜神はじっとそれを無視していたが、その一端がノートにかかるのを指先でのけ、言外に抗議をしてみせた。右手の彼はそれに気づいたふうもなく藁半紙の紙きれをつまんで目の高さに持ち上げている。彼の真正面五メートルの位置には講師が板書をしており、時折講義室に目を走らせるが、流河の様子は彼の視界に入らないのか、視線は上滑りするばかりだ。最初の講義のときもそうだった。同じように気を散らす流河を見かねて講師は入学したての大学生には酷すぎる質問を投げかけたのだが、流河はそれに答えるばかりか彼の講義の粗にまで言及した。それ以来講師は流河を無視し続けている。
 流河の手が無遠慮に動き、チラシの山がとうとう夜神のノートの上に崩れてしまう。夜神は口の中で舌打ちをし、紙屑をはねのけた。何枚かがデスクの下に落ちていく。流河は紙切れをつまみあげたまま夜神を向き、今晩暇ですかと訊いてくる。なんの誘い?私の滞在しているホテルに。捜査協力か?まだ父の容態が安定してないから遠慮したいのだけど。小声の会話でも誰かに聞きとがめられるのは避けたかったが身動きがとれない。夜神はノートの端を汚しながら右手の流河をうかがう。彼は夜神の走り書きに素早く目を走らせて、冗談ですと口頭で告げた。手の中のチラシを夜神のノートに被せる。白黒コピーのA4用紙の中央にマンホールの写真が印刷されているだけのチラシだった。薄い紙に裏面が透けている。表をかえすと、明朝体のカッチリとした字体でこのマンホールは、と印字されていた。
 夜神は流河をもう一度見る。彼は面白そうでしょう、そう無表情に言って夜神のノートに書き物をした。今日の深夜一時、その交差点で、とある。
 そのマンホールの噂を初めて聞いたのは妹からだった。夜神の家からは少し離れているからよくある作り話としか捉えていなかったが、チラシには丁寧に住所が記してあり、そのときの対処法まで書いてあった。そのマンホールはある交差点の真ん中にあり、他の下水道に通じるマンホールとは蓋の模様が異なっている。そのマンホールの下へ毎週火曜日深夜一時半に降りていくと、暗かったはずの縦穴に光がポツポツと見えてくる。出口は近いとそのまま降りていくと、梯子がついに途切れてしまう。そこで彼は、今まで下に降りていたと思っていたのが、上に登っていたことに気づくのだ。足元に星を見、頭上に民家の屋根を見る。自分が逆さまになっていることに気づく。
 なんかね、本当に行って戻ってきた人がいるらしいの、そのマンホールの下には逆さまの街が広がってるって。あれは確か二年前の春のことだった。昼間高校で同級生がひそひそと噂話をしていると思ったら、その晩の夕食の席で妹がマンホールの話を始めたのだ。そのときは、ただのマンホールだった。数限りなくある都内のうちのマンホールの一つでしかなかった。それが今、夜神の目の前に具体的な形をもって接近しようとしている。
 講義終わりの廊下で流河の背中を捕まえた。本気か?なにがです。さっきの話だよ。面白そうでしょう。……つきあってられない。合コンですか?指をやった口元をゆがめて流河は首をかしげる。ノートに挟まれたままだったチラシを鞄から取り出し流河に押しつけた。用のないなら捨ててください。人差し指に力がこもる。流河の背中を見送って、夜神はダストボックスにチラシを捨てた。妹が持ってきたマンホールの噂はその骨子のみだった。マンホールの下へ降りていくには蓋が開いていなければならない。蓋を開けるのはその下からやってきた人間だという。彼がマンホールのかたわらに立っていなければその下にはいけない。この話がいささかの恐怖をかきたてるつくりになっているのはこれからだ。下へ降りていった人間は、閉じられたマンホールの蓋を開けられずその下の住人になるよりない。マンホールのかたわらに立つ彼が、その後降りていった人間の代わりにこちらの世界で暮らし始めるという。
 くだらない話だ。夜神は携帯を取り出し、今晩の飲み会のキャンセルを伝えた。あの近辺に住んでいる女の子を、アドレス帳から検索する。

 一時二十分、夜神はその交差点に面しているコンビニに入った。スナック菓子、カップラーメン、弁当のコーナーをぶらつき雑誌コーナーで足を止める。交差点に自動車の通りはほとんどない。時折、ドリフトまがいの猛スピードで信号無視をしていく車があるのみだ。交差点の信号は制御する対象を失っても一定の間隔で点滅を繰り返し切り替わっていく。
 テレビ雑誌を三ページ程めくった頃、静かにフルスモークの自動車が交差点の脇に停車する。夜神はそれを目だけで確認する。しかしそのまま雑誌に目を戻そうとするのを失敗した。交差点のど真ん中、マンホールのあるあたりに人影を見た。白いシャツとデニムを身に着けている。車からは誰も降りてきていない。あれは流河ではない。夜神は雑誌を持つ手が汗ばむのを感じる。自動車が動いた。ドアが開き、白いシャツとデニムの影が地面に足をつける。自動車はまた音もなく交差点を過ぎ去っていく。
 流河はためらいもなく交差点を斜めに突っ切り、彼の元に歩いていく。白いシャツが二人、マンホールを真ん中に向かい合っている。彼らの足元に黒い穴があいているのが、この位置からでもはっきりと判った。マンホールを降りていったらもう戻れない。残るのは下からやってきた人間である。夜神はページをもう一枚めくった。そのときだ。
 月、よかった間に合った、忘れ物だよ。コンビニの扉が開くなり高い声が夜神を呼び戻す。目を離したくなかったがそうもいかない。彼女の手には夜神の講義のノートがあった。夜神にノートを取り出した記憶はなかった。彼女が勝手に抜き取って複写したのだろう。それは言わずノートを受け取る。なんか変な感じ、月がコンビニで雑誌立ち読みなんて。
 夜神の隣で雑誌を立ち読みし始めた彼女を余所目に夜神は再び交差点に目をやった。しかしもう遅い。マンホールのかたわらに立っているのは白いシャツが一人だけである。
 五百円お預かりいたします、三百六十三円のおつりになります。コンビニのレジ係の声が静寂を破る。いつの間にかプリンを購入したらしい彼女は交差点を見つめる夜神の顔を覗きこみ、じゃあわたし帰るね、と言う。白いシャツの彼が動いた。大股で交差点を突っ切りコンビニに向かってくる。彼の猫背に見覚えがある。しかし彼は本当に彼だろうか。そこまで考えて、夜神は己の思考のくだらなさに脱力した。送っていくよ。え、いいよすぐそこだし。大体、女の子がこんな時間に出歩くもんじゃないよ。
 じゃあ、送っていきますよ。黒々とした目が夜神と彼女の間に現れる。コンビニの前にフルスモークの高級車が間もなく横付けされた。
 値が張るだろうシートに足を引き上げて、流河はポケットからキャンディを取り出した。どうぞと夜神にも差し出すが、丁重に辞退する。包み紙を使って器用に折鶴を折りながら、流河は無表情に次の行き先を指定した。心配してきてくれたんですか?ああ、今お前になにかあったら一大事だろう。窓の外の街は既に寝静まっている。エンジン音は最小限に、揺れはほとんど感じない運転だ。タイミングよく青信号だけが行く手に連なる。
 もう一人いただろう、あれはお前と同じように様子を見に来た野次馬か。キャンディを口の中で転がしながら流河は首をかしげる。彼は降りていきました。その声は不自然に平坦だった。夜神は首を横にひねる。そこには流河がいる。黒々とした目がある。後から来た彼のことでしょう?彼は降りていきました、ので、私がマンホールの蓋を閉めました。人をからかうなよ、お前がこの車で後から来たんだろう。いえ、ですから、後から来た彼は降りていきましたから、この車は私のものです。……いいかげんにしないと怒るぞ。
 掴んだ手首はまさしく流河のものだ。抱きこんだ腰の細さだって覚えている。うずめた首元の甘いにおいや、鎖骨を舐めると筋が一時緊張するのも、その後ゆっくりと弛緩していくのもすべて覚えている。成り代わったって、すぐに判るだろう。あの下の世界にもまた夜神に相当する人間がいて、この流河の耳の裏にあとをつけていたりするのだろうか。
 夜神の腕の中で流河がホールドアップの恰好でいる。冗談です離してくださいもうしません。口の中でキャンディをごろごろやりながら、夜神の舌が鎖骨を舐めるのに眉をしかめた。やっぱり夜神くんは騙されてくれませんね。やるのなら徹底的にだ。しかしながら流河は耳の裏にあとをつけていたことなど知らなかったのだろう。知っていたらファンデーションなりで隠してくる。現に、あばらのあたりのあとは綺麗に消されていた。
 でもさっきの夜神くんの顔は圧巻でした、あれを見れただけでもよしとします。夜神は黙って流河の体を押し離した。その恰好のまま、無表情に見つめてくる。なんだよ、判ったらこんなくだらないことに時間を割くな。いいえ、言って流河は首をかしげた。キャンディの覗く口を開けて、夜神くんこそ、本物ですか?そう訊いてくる。……なんならここで突っ込んでやろうか、お前が形を覚えていないなら無駄だけども。いいえ、遠慮しておきます。流河の向こうの窓の外が、じょじょに夜神の頭の中で形をつくる。そろそろ自宅に到着するだろう。夜神を見る彼の目は黒々としている。間違えようもない黒である。

真夜中に(070610)
秋さまリクエスト
「都市伝説風の怖い話」