私なんかは四歳で孤児になりまして、親戚のつてなどあてにするほど周りに目を配っていなかったものですから、あっという間に身ぐるみ一つになってしまいました。それでも捨てる神あれば拾う神なのでしょう、町の片隅のアスファルトに白墨などで昔覚えた数式の証明などを書き連ねていると、どこから聞きつけたものやら、大人がたくさんやってきて数式の跡を辿ってくる。だけれど誰一人私の書き上げたQ.E.D.の印までは行き着きませんで、いつのまにか一人二人いなくなったかと思うと、ほら、あなたも知っているでしょう、あの老人がやってきて私を車に乗せていったのです。
夜神は窓辺にのせた腕を持ち上げて首元にきつくしめたネクタイを緩めた。車窓の外は既に陽が落ち、時折街灯か、家の灯りかが通り過ぎるばかりでなんにもはっきりとしない。ただ目線の辺りより上にはこってりとした黒灰色の空が広がっているのが判った。四人乗りのボックス席の進行方向窓際に夜神は腰を下ろし、列車の行く先も判らぬまま体を揺らせている。覚めてこのかた、車内放送は一度も流れず、音といえば外車が線路をかむ音と、夜神の真後ろに座っているらしい男の昔語りのみである。その男の昔語りさえ今の夜神には右耳から左耳へ通り過ぎて行くばかりだ。長い旅になるのだろうかと夜神は思った。空腹は感じてはいないが、この先それを感じることがあるだろうかと思案する。ふと思い立って左手首に目をやるが、いつもしているはずの腕時計はそこにはなく、ごつごつとした骨が出っ張っている。
これは、もしかしたら出張の帰りなのではないだろうか。そう思うとそれはそうだ、そうに違いないという気持ちになって棚や足下を見回すが、いつも手にぶら下げているはずの鞄はどこにもない。しまった、どこかに置き忘れたのだろうかと思う。財布の感触は右の尻にずっと感じていたので、いざとなったら事情を話せばよいかと夜神はあごをさすった。鞄の中身の書類も、とるに足らないものばかりだ。
連れて行かれた先は、郊外の大きな屋敷でした。使用人が何人もいるなかにぽんっと放り出されて、訳の分からないままそこでの生活が始まったのです。
男の話は淀みがない。するすると口から文章が流れ出して、夜神の耳をすり抜けていく。それはそうと、夜神はその喋っている男の気配は感じるのにその聞き手であるだろう人間の気配がないことに気がついた。気がついてこのかた、この車両には夜神とその男しかいないように思う。この話は僕に喋っているのだろうか、そうであるならば相づちの一つぐらいうたないと具合が悪い。恐る恐る後ろを振り返ってみると、喋っている男のものらしい黒い髪がぴょこぴょこはねている後頭部と、その向かいに座っている高校生か大学生ぐらいの青年が目に入った。青年はひどく神妙な顔で男の話に聞き入っているので、それほど重要な話なのだろう。しかし夜神にはただの昔語りにしか思えない。
喉の渇きを覚えて夜神は窓辺に目をやる。そこには茶色い紙コップに注がれたコーヒーが置いてある。触れてみるとまだ十分に暖かく、買って幾分もたっていないように思われた。
あの老人は私の頭の尋常ではないところにすぐに気がついて、さんざんテストを行ったあげく、果てには実際に起きた事件の書類を何部も持ってきてこの犯人が判るかと訊いてきます。私がこれはこう、こっちはこうと答えますと、しきりに感心した様子でした。私がすっかりそれを片付けてしまった夜に、老人はいつものあのしわくちゃの顔を少しだけほころばせて、L、今日からこれを生業にしていきましょうかと問います。それが始まりでした。
L。夜神はその単語、いや文字に少しだけ反応した。かつての知り合いにそういう風に呼ばれていた者がいた気がした。手の中のコーヒーはすっかり冷たくなって、夜神はそれを一気に胃に流し込んでしまう。窓の外はすっかり暗くなって、街灯の数もめっきりまばらだ。そういえば随分と時間が経ったように思われるのに、車内放送などがまったくない。長距離移動のための列車なのだろうかと思う傍ら、そんなことはどうでもいいことに思われて、夜神はとうとう目を閉じてしまう。
ねえ夜神くん。
はっとして夜神は目を開けた。また随分と時間が経ってしまったのだろうか。窓の外はすっかり暗闇だ。けれどそんな時間であるのに列車はスピードを緩めることなく順調に距離を稼いでいる。男の話は終わってしまったようで、沈黙が降りるばかりだ。
私の最後の失敗は、あのときヘリに監視カメラを設置しておかなかったこと、ノートを手にしたあなたの様子をつぶさに観察しなかったことでした。いきなり目の前に現れた異形の者に目をとらわれて、私はあなたを野放しにしてしまった。あなたはとにかく頭がいい男でした。全て計算のうちだったのでしょう。これもそうです、その計算のうちの一つでした。
ジャラリという音がする。その音は、夜神の耳には慣れた音である。伏せた目に、座席に乗り上げたかっこうの足指が見える。親指がすっかり白くなって、座席の上をうようよと動く。ゆっくりと顔を上げていくと、洗いざらしのジーンズの足を抱え込んで、男が笑みのようなものを顔に張りつかせて夜神を見ている。
この時計の、ここのところ、素人腕でなにか細工をしたようなあとがありますね。そうだ、時計のねじ巻きを四回、間隔を置かずに引っ張ると時計の裏板が飛び出してきてそこにあのノートの切れ端が貼ってある。ああなるほど、四回、引っ張るのですね。男は嬉しそうな顔で時計のねじ巻きを人差し指と親指でつまみ上げた。カシャと音がして夜神の言うとおりに裏板がスライドする。ふふ。男はとても嬉しそうに時計を額の高さにつまみ上げて、ぎょろぎょろとした目をきらりと光らせる。夜神ははっとして、腕をのばしてその時計を奪い返そうとするのだが、男の手の方が早い。なにをするんだ竜崎、早くそれを返せ。いやですよ、これは私が拾ったのですから。拾った?どこでだ、だけどそれは僕のなのだから、返してくれないと困る。暗い倉庫の中ですよ、その中です。じゃあそこで僕が落としたんだ、早く返してくれ。あなたのものだと言う証拠がどこにあるのですか。それは僕の時計だ、父さんから貰った大切なものだよ、お前だって一緒に風呂に入ったりするときに目に入れていただろう。ああ、そんなこともありましたね、遠い昔のようですが。実際、遠い昔の話だ。あれはもう五年も前のことだ。
座席の上の足指がぞろりと動く。あっという間にそれは伸びてきて、夜神の膝を撫でた。相変わらず行儀が悪い。夜神はジャケットのポケットにたまたま入っていたパイナップル味の飴を取り出すと、包みを破ってみせた。くれるんですか。欲しいんだったらこいよ。男は時計をジーンズの尻ポケットにしまい込んで、とうとう夜神の膝の上に乗ってしまった。物欲しそうに人差し指をくわえてみせる。夜神は摘みあげた飴を男のくちびるの間に押しこんで、そのついでにそのしたくちびるを撫でてやった。するりと白い蛇が夜神の首に巻きつく。くちびるを半開きに、舌の上の黄色いドーナツ形の飴を覗かせて、そのまま夜神のそれに押しつけてくる。なんどか飴は双方の口を行ったり来たり、終いには半分ぐらいの大きさになってようやく男の口の中に収まった。濡れて光る男のくちびるを拭って、その後頭部を支えて肩に押しつけた。いくらか吐息を漏らして男はそれに従う。擦りつけるようにするので、彼の髪が耳をちくちくと刺した。
お前のことなんて忘れていたよ。腰を抱え込んであやすように揺する。男はフフと笑った。相変わらず酷い男ですねと言って笑った。自分は私のことを忘れていたというくせに、私には覚えていろと言う。忘れる日なんてなかったろう。ええ勿論。頭をずらして、夜神の首筋に息がかかる。生涯あなた一人でしたから。
男はそうして首を持ち上げ、夜神の色素の薄い髪を一房摘みあげた。手触りが気に入ったのか何回も何回も指を通す。夜神は勝手にそうさせておいて、男の腰に回した腕をこそりと動かしその尻ポケットに指を差し入れた。しかし、先程男がそこにしまったはずの時計は影も形もない。耳元でフフフと笑い声がするのでその肩を引き剥がすと、男はもう持ち主に返しましたからありませんよと言う。だからあれは僕の時計だとさっきから言っているだろうが。
もしかして、さっきまでこの男の話を聞いていたあの青年が時計を持っていったのかと思い、首をひねらせて後部座席を見るがそこはもうもぬけの殻だ。慌てて周りを見渡すが車両にはこの男と夜神の他乗客の姿はない。おい、さっきまでいたやつはどこに行ったと思う?男は夜神の髪をすきながら明後日の方向を向いている。どこに行ったもなにも、最初からあなたと私のほかに誰もいませんでしたよ。
男が嘘をついているふうもなくそう言いきるので夜神は憮然とする。いや、そもそもこの男は息をするように嘘をつく男だ。そう言うとそれは自分にも言えることなのだが、彼の姿がここにない以上それはそうなのだろうかという気持ちになり、夜神はそれ以上の思考を放棄した。もう飴はないのですか。もうないよ。夜神はてのひらを広げて見せる。そのてのひらで、猫の背中をなでるように男のそれを撫でた。僕もコーヒーが飲みたいのだけど、車内サービスなんてものはあるのかな。さあ、どうでしょう。……この列車は、どこに着くんだろう。
真っ暗闇の窓の外は時折街灯らしき明かりが点々とする。向こうのほうに赤く焼ける地平線を見た気がした。夜神は目を凝らすが睡魔がじわりと脳みそを侵食してきて、もう、瞼が落ちかかってくる。眠ったらどうですか、ずっと起きて仕事をしていたんでしょう。男の声が耳元をくすぐる。足元から冷気がやってくる。起きたら、今度は夜神君の話を聞かせてください。
応じて、夜神は男の背中に腕を回してきつく抱きしめた。少しの間だけ眠ろうと思う。そう思っているうちに男の寝息が聞こえてきたので、夜神もそっと瞼を下ろした。その瞼を焼くじわりと赤い陽が、ゆっくりと辺りを包み込んでいく。
さよなら賢治先生(070213)