数ヶ月前、彼女との共同出資で車を購入した。新車のスカイライン。メタリックシルバの流線形のフォルム。車高が低いので転がしていると空気の抵抗をほとんど感じない。彼女はこれがいたく気に入ったようで、二人で出掛けるときはもちろん、一人でドライブに出かけるときもキィを指にひっかけて鼻歌を歌う。N社のっていいよね、GTRとかスカイラインとかも好きだけどNOTEとかも可愛くて好き。夜神が運転する助手席で、窓を開け放して前髪を閃かせている。左前方を確認するときに彼女の横顔が目に入る。薄い色の瞳に蒼穹が映りこんでいる。その穏やかな色と、彼女の瞳の殺傷力の途方のなさを思って夜神はしばし呆然とする。春先の穏やかな風がそれに拍車をかける。
郊外の大型家具店で彼女が欲しいと言っていたキャラメル色のソファを購入し、道を挟んだ向こうに営業している洋食レストランで昼食をとった。彼女は昼間からワインを飲んでいる。今日は機嫌がいい。赤が鮮明な飲み物を口に含むたび、彼女の金色の髪が揺れる。月も飲めばいいのに。馬鹿言うなよ、飲酒運転だ。置いていけばいいじゃない、あとでうちのマネージャーにでもとりに行かせるからさ。夜神がデミグラスソースのかかった肉の塊を口元に寄せながら困った顔をして笑うと、彼女は小首を傾げて少しすまなそうにする。ごめん、怒った?
夜神は基本的に自分の持ち物を他人に触らせることを好まない。それは昔からそうであったが、あのノートに関わることになってからはそれが顕著になった。己のテリトリーを明確にしておきたいのだと思う。そのテリトリーを他人に侵されるのが我慢ならない。もちろん夜神もまた他人のテリトリーは尊重す
る。その他人が、まっとうに生きている人間に限っての話だ。
ギアを一速に入れスカイラインを発進させながら、夜神ははるか前方の信号を見つめている。気温は昼になってからぐんぐんと上がり続けている。彼女は助手席で紫外線を気にしている。夜神は、ふとジャケットに入れたセブンスターのパッケージの中身があと一本なのを思い出して、ストックしてあるカートンの数と、マンションまでにかかる時間を計算し始める。穏やかな春の日である。
仕事を終え、マンション近くの自販機に缶コーヒーを買いに行く。夜神は基本的にアイスコーヒーやアイスティーの類を好まない。青い表示に占拠された自販機の中からホットを選び、てのひらにすっぽりとおさまる缶を取り出す。プルトップを開け、一口含んでからマンションまでの五百メートルを歩いた。
スラックスのポケットに金属の感触がある。取り出してみればスカイラインのキィである。父親を実家に送っていったときからそこにあったのだろう。夜神はしばらくポケットの中でその生温かな金属の感触を楽しみ、缶コーヒーを半分まで消費した。階上へと昇るエレベータには乗らず、そのまま地下駐車場へと体を潜らせる。深夜を過ぎたマンションの地下駐車場は、深海のように暗く暗く沈んでいる。一定間隔を置いて発光しつづける蛍光灯。夜神はその奥に静かに息づいているスカイラインに近づく。今日は彼女は夕方近くからスタジオ入りしている。マンションの部屋には相沢が残っているのみだ。携帯を操作し、実家に用があることを相沢に知らせると、夜神はロックを解除し体をその中に滑りこませた。缶コーヒーをホルダに置き、息を吐いてシートに体を沈ませる。エンジンをふかすわけでもな
くステアリングを握るわけでもなく、ただ柔らかなシートに座って前方を睨み続ける。
五年経った。
夜神はもう一つ、深く息を吐いてシートベルトに手を伸ばした。ホルダーの缶コーヒーに手を伸ばし、一息に飲み干す。行き先は決めていない。どこでもよかった。こんなふうに一人で深夜に車を転がすこと自体が初めてだ。とりあえず湾岸まで出てみようか、そうすれば返ってくるころには朝方近くになるだろう。寝る暇もなくなる。窓に右肘をもたれさせてそこまで思考した夜神は、前髪をかきあげてステアリングに手をかけた。イグニッションキィを回す。ギアを入れて、その手でハンドブレーキに手をかけた。そのときだ。
助手席の窓が叩かれる。振り向いた夜神の目に白いTシャツがかすめる。薄暗い地下駐車場にハッとするような白である。夜神は一つ唾を飲みこみ、ハンドブレーキにかけようとした手を離した。数秒、その状態で膠着する。もう一度、助手席のドアが叩かれる。窓に近づけられた手の甲の、その色の悪さを夜神は思う。白のTシャツがよじれた。ゆっくりと歪んでいき、顔の一部が窓に現れる。無表情に結ばれた口元、次いで、重たい黒髪。心臓を掴まれる思いだった。もう一度ノック。夜神はゆっくりと助手席のロックを外す。軽い音がして解除。ノックをしていた手が動く。素早く開かれたドアから、白いTシャツが入りこんでくる。彼は、どうも、と一つ寄越してスニーカーから足を抜き、シートの上に持ち上げる。あの恰好でうずくまり、ドアを閉める。そうして運転席を見やる。重い前髪から覗く澱んだ魚の目。どこに行くんですか。
……お前が行きたい所ならば、どこへなりと。言ってから夜神は、自分の声が震えてやしなかったかと思う。完全な、等身大の彼が幻影に現れて、こうして耳に聞こえる声で喋ったことは初めてだった。まだ大丈夫だと夜神は自分に言い聞かせる。そうしてハンドブレーキを解除した。買ったんですか、この車。ミサと共同でね。車内をきょろきょろと見回して、そんなことを言う。薄暗い車内でそう細かな箇所まで見えないだろうに、だが彼のぎょろりとした魚の目はなにものも見逃さないといわんばかりに光を湛えている。地下駐車場を出、深夜の住宅街をゆっくりと滑りだしながら、夜神は自分の左半身の緊張具合を感じる。こめかみにかいている汗に彼が気づかないことを、いっそ神に祈りたかった。
では、東応大に。バス通りをたどり、大きな交差点に近づいたところで彼がそう小さく漏らした。スカイラインのほかに車線を走っている車はない。前方、連なる信号は制御する対象を失ってもなお明滅を繰り返している。東応?鸚鵡返しの夜神の言葉に彼は、ええ、と応じる。バックミラーに、彼の重たい前髪が映りこんでいる。私と夜神くんが初めて会った場所です。
五年経った。夜神はその言葉をもう一度頭に思い浮かべながら、アクセルを踏みこむ。こめかみの汗はすっかり引いている。緩やかに呼吸を続けながら夜神は腹の底に貯まるあたたかな汚泥が、ゆっくりとかきまわされていくのを感じる。そろそろ出てくるころだと、思っていた。いや、それは正確ではない。そろそろ出てくるころだろうと、期待していた。夜神は真っ暗な視界にきらめく光の粒に、目を少し細めた。
君の街まで(080828)