陽の入射角が低い。冬の日である。南向きの窓からは白い光が絨毯を温めるが、部屋の空気までもというわけにはいかない。夜神は空調のスイッチを入れ、キッチンに置かれた母の伝言を見る。今日は朝から妹と百貨店に買い物に行っている。昼も出先で済ませ、映画も見てくるので帰りは昼過ぎになる、とある。メモ書きの下のほうに、今日は父親の来客があるので応対してほしいと書いてあった。急なことなのだろう。昨日の晩にはその話は出なかった。冷蔵庫には来客用のものなのだろう、近所のケーキ店の箱が鎮座している。中を覗くとカットケーキと焼き菓子が隙間なく詰まれていた。
 簡単にホットサンドとヨーグルトの朝食を済ませ、空気の暖まってきたリビングで新聞のページを繰る。またも心臓発作という題字を横目に、不正のあった省庁の事務官自殺という記事に目を通す。伏魔殿という単語が夜神の頭蓋を漂った。コーヒーをすすりながら社会面、経済面を流し、紙面を折りたたむ。休日の正午近く、窓の外は穏やかに雲が流れる。
 と、車庫のほうが騒がしい。これが例の来客だろうかとテーブルの上を片付けているうち、玄関が開いて父親がリビングに顔を出す。夜神はすっかり心得ている顔をして、何人なんだいと尋ねた。二人だ、ただし片方は小さなお子さんだから。……キッチンに入り、淹れておいたコーヒーを来客用のカップに、オレンジジュースをグラスに注ぐ。冷蔵庫からケーキの箱を出して、焼き菓子とカットケーキを揃えた。盆にそれらをのせているうちに玄関のあたりがまた騒がしくなってくる。様子を見計らってリビングに顔を出すと、ソファには老齢の男性と十にも満たないような子供が座っていた。男性は休日だというのにきっちりとネクタイを締め、手入れの整った髭が口元を覆っている。対して子供はこの寒い日だというのに袖の長いTシャツ一枚で、裸足の指をソファに引き上げてもぞもぞと動かした。未発達な肩やひじの骨がとがっているのが薄い布越しに感じられた。父親に息子ですと紹介されるまま、頭を下げてコーヒーとジュース、ケーキをサーブする。老紳士は目元を和らげて礼を寄越し、父の古い知り合いであると簡単に自己紹介を済ませた。隣に座っているのは数年前に引き取った養子であるという。子供はケーキがテーブルに置かれるや否や、養父を見上げて目を輝かせた。老紳士の皺だらけのふっくらとした手が彼の髪を撫でると、いそいそとケーキにフォークを突き立て始める。微笑ましい休日の風景である。
 しばらくキッチンでコーヒーを啜り、文庫本を繰っているとリビングから父親の呼ぶ声がする。呼ばれて行けば、しばらく子守をしてくれないかと頼まれる。子供に聞かせるには忍びない内容の話でもあるのか、大人二人は少しだけ顔を強張らせている。子供は養父の分の焼き菓子で手元を汚して、二人の周囲の空気にはてんで気づいていない。夜神はそんな子供がふとかわいそうになり、快く了承した。はばかりのある話ならば最初から連れてこなければいいものを、夜神は少し憤りを覚えながら子供の手を引き自室への階段を上る。外に連れ出そうとも思ったが、彼は防寒着の類は一切持ってきていない。Tシャツ一枚では辛い気温である。
 しかし子供の喜びそうなものなどなにもない、大学受験生の殺風景な部屋である。どうしたものかと思案しているうち、子供は一人で本棚に近寄りその背表紙を眺めている。口元に持っていった人差し指がくちびるを忙しなくいじった。
 彼の指さす百科事典を抜き取って与えてみる。彼は自分の上半身ほどのそれをよたよたと抱えてベッドに近寄り、それを背にして膝に分厚い本を広げる。なるほど勉強熱心な子供らしい。遺跡や、出土品の写真などを食い入るように見つめている。夜神はそっと彼の脇に手をやって持ち上げると、胡坐をかいた膝の上に乗せてやる。彼の尋ねるまま、夜神は質問に答えてはその鋭さに舌を巻いた。
 悪い人をやっつけてくれる神様のことは知ってるかい。なにかおはなしをしてくださいと子供が言うので夜神は彼の手をあやしながらそう応じる。やわく握りこんだ拳は夜神のてのひらにすっかり包みこまれてしまう。子供は右手の指先でくちびるを弄りながら、しっています、キラというやつのことでしょう、そう寄越してきた。その口ぶりが、まるで嫌いな野菜がシチューに入っているのを見つけた子供のようなので、夜神はふふっと笑ってしまう。嫌いなのかい?きにいらないだけです。どうして?あれはかみさまのふりをしているただのにんげんです、ただのひとりのにんげんが、いちこじんのかちかんにのっとってひとをさばきころしていいはずがありません。夜神はそれを聞きながら、さあ困ったぞと思っている。この子供はどうも一筋縄ではいかないようだ。それが悪い人でもかい?つみをおかしたにんげんはほうにのっとってさばかれるべきです。結果は同じだ。このばあい、じゅうようなのはけっかではありません、りんちとしけいはちがいます。そうして、やけにキラのかたをもちますね、と呟く。そっちこそ、やけに毛嫌いしてるじゃないか。彼の柔らかな髪を撫でながら、彼のこわばった声を溶かそうと小さな体を軽くゆすってやる。そうして、階下にオレンジジュースを取りに行こうかと考えた。彼のその考えは、もしかしたら近しい大人の考えかもしれない。だとしたらあの老紳士であろう。この子供は、ニュースや新聞の報道のたびに養父の口から漏れ出る愚痴をそのまま覚えこんでしまったに違いないのだ。
 ジュースをとってくるよとベッドに子供を座らせようとしたが服の裾を掴まれて動けない。子供は真ん丸な目で夜神を見つめて、どうしてですかと問うた。なにがだい?なぜそんなにキラの肩を持つんですか?気のせいだよ、ほら、ケーキも取ってきてあげるから。それは嘘です、夜神くん、夜神くんはとても頭のいい人です、もしかしたら。子供が今度はもっと力をこめて服の裾を引っ張ってくる。夜神は困った顔をして彼の肩を抱き寄せ、そのこわばった背中をさすってやる。なにをもってそうしてやろうと思ったのか、夜神でも判らない。おそらく、この幼く聡明な子供には真実を伝えておきたかったのかもしれないし、誰か一人にでも己のなそうとしていることを知っていて欲しかったのかも知れなかった。……そうだ、君の考えている通りだ。
 ぱっと彼の顔が上を向き、夜神の目の奥をじっと見つめた。夜神は優しく笑ってやる。そうして、本当にジュースとケーキを取りに行こうと腰を浮かせた、そのときだ。彼の腕がぐんと伸びて夜神の首に絡みつき、目前にまで迫ったくちびるが言葉をかたちどる。……だとしたら、だとしたら夜神くん、私の運命の人はあなたかもしれません。そうして子供はにやりと笑った。

告解の日(081130)