珍しく雨が降っている。昨晩から降り続いているので用水路はもうほとんど橋下にまで泥水を溢れさせていた。もう降り止むのだろうか、水たまりを打つ雨粒はほとんど大人しくなっている。軽トラックが夜神の横をすれちがっていった。背後で盛大に雨水を飛沫上げる音がする。
 水たまりについて、友人が昔不思議な話をしていた。あれはまだ盛夏のことであったと思う。蝉の鳴き声に慣れ過ぎてほとんど気にならなくなっていたころであった。夕立後の、黒く濡れたアスファルトの上を歩きながらそういうとりとめのない話をしていた。凍らない水たまりという話である。たまたま持っていた蝙蝠傘をできあがったばかりの水たまりに突き立てて、ほら、歪んで見えるでしょうと言う。石突が水面で折れ曲がっているように見えている。……こんなの、子供でも知ってるだろう、光の屈折だよ。友人は、くちびるを人差し指で弄りながらさすが夜神くんですと言う。馬鹿にしているのが丸わかりで、夜神は鼻を鳴らした。
 境界なんですよ、と友人は言った。まだまだ気温は下がることを知らない。にわかに雨が蒸発しはじめて、息をするのも苦しいほどである。先程まで雨を降らせていた雲はすでに東の空に流れてしまっている。後ろを振り返れば、高く積み上がった積乱雲が薄赤く陰影をつけている。前に向き直りながら訊きなおすと、指先を振りながらあちら側とこちら側のですと言う。最近、そういう話が好きだな、この間も穴がどうとか言ってなかったか。いろいろ調べてみると興味深いものもありまして。そうして友人はパシャンと音をたてて水たまりを踏んだ。雨水が飛び散る。
 ……長靴を履いた子供がわざわざ水たまりを選んで駆けまわっている。彼は雨水が跳ねとぶ様が面白いのか、そのたびにきゃっきゃっと声を上げた。まだ年端もいっていない子供だが、周りに彼の面倒を見る大人の姿はない。彩度の低い初冬の風景の中で、黄色い傘と長靴が鮮やかに夜神の目に焼きつく。腕時計で時間を確認する。十二時開始の葬儀には充分間に合う。この路地を入ってゆけば突き当りに会場の公民館がある。目を凝らせば黒白の幕が張ってあるのが判った。
 冬に雨が降った次の日の朝、凍っていない水たまりがあったときは要注意です、と友人は言う。それが二つ以上ある場合は構わないと言う。ただひとつだけ凍っていない水たまりがあるという状態が危険なのだ。友人はそういう突拍子もないことを真面目な顔で語る。そもそも友人は表情と抑揚に乏しい。夜神をからかっているのか本気なのか、今でもよく判らない。多分それを詮索してもしょうがないことなのだろうと思っている。用水路の橋を渡り、路地に入ってゆくと、遠くのほうでわらびもちを売っている声がする。友人はびくりと肩を震わせたが、声のする方角が彼の住まいとはてんで違う方向なので逡巡しているようだった。
 それで?と夜神が続きを促すと、友人はわざわざ数メートル先にある水たまりまで走っていってわざと右足を踏み出した。水が飛び散る。ジーンズの裾が濡れた。通常水が凍る気温でさえ凍らない、という時点でこちら側のものではない訳です、つまりあちら側のものなんです。濡れたジーンズの足を目を細めて見つめている。いつもは見開かれている目が半眼になっている様子が、なんだかひどくおかしい。あちら側のものに触れると、あちら側のものになってしまう。ぎょろりとした魚の目が夜神を向く。
 記帳をすませて葬儀会場に入る。やはり少し喪服の裾が濡れてしまっている。数回会ったことのある彼の養父に頭を下げた。彼のすすめで、棺に近いすみのほうに座らせてもらう。数珠を用意していると、じきに読経が始まった。
 友人の死因は、心臓麻痺だったという。
 正座した自分の膝をぼんやりと見つめ、数珠を持った手を合わせていると、カタンという音がする。首を少し動かし音のした前方を見やった。棺の一部分が小窓のように開いて、友人が顔を覗かせている。死んでしまっても生きていても色の悪い肌の色が夜神には少しおかしく思えた。……死んだんですか。そうだ、今葬式の最中だから大人しくしてろよ。暇なんですよ。ごそごそとなにかを探ったかと思うと、チョコレートを取り出してがしがしと食べ始める。茶色い屑がぽろぽろとこぼれているので、夜神はそっと顔をしかめた。おい、汚すなよ。どうせ焼いてしまうんだからいいじゃないですか。そうじゃなくてさ、葬式の最中にものを食べるなよ。
 友人はチョコレートを食べながら周りを見渡している。誰もが下を向いて経を唱えている様子がつまらないらしく、チョコレートの銀紙を丸めては棺の中から投げつけている。その一つが夜神の膝元にも飛んできた。彼の仕事の知り合いだったのだろう、朴訥そうな青年の頭にも当たっている。彼は不思議そうにあたりを見回しては、棺から顔を出している友人には微塵も気づかずにまた経を唱え始めた。……おい、もうそのぐらいにしておけ。人差し指の頭ぐらいのボールを作っていた友人は、恨めしそうに夜神を睨む。突き出したしたくちびるの色が悪い。
 チョコレートで汚れた親指を舐めながら、それで、犯人は見つかったんですか。……心臓麻痺で犯人もなにもないよ。まあそうでしょうね。友人は首をくるくるとまわしながら、ああとため息をついた。夜神くん、退屈すぎて死にそうです。そのセリフにぷっと吹きだしてしまい、夜神は慌てて口元を押さえた。だってお前、もう死んでるじゃないか。それきり友人は黙ってしまう。小窓の隙間からじっと夜神を睨んで、読経の終わるのを待っているようだった。夜神はその視線がちりちりとつむじのあたりを焼くのを感じながらも、先程の友人のセリフを思い出しては笑いそうになるのをこらえている。やがて木魚の音がやみ、チーンと鈴が鳴らされた。数珠を擦り合わせて深く礼をする。そうしてすっと顔をあげると、丸い魚の目と視線が合った。じゃあな竜崎。夜神がそう言うと、夜神くんも明日の朝は気をつけてくださいと言う。外はまた少し雨足が強くなってきたようである。

水たまりの死(090508)