拝啓 先頃突然やってきた寒さもゆるみようやく春めいてきましたが、変わりなくお過ごしのことと存じます。私も元気で過ごしておりますので、他事ながらご休心下さい。日頃、何かと心お留めいただき厚く御礼申し上げます。
 さてまことに些細ではありますが、先日隣家の**さんから伊予柑を箱ごと頂きました。老人の一人暮らしでは食べるさきから痛んでしまうのではと思い、よろしければとお送りした次第です。お納めいただけるようお願い申し上げます。
 そちらももう而立。ますますのご発展をお祈り申し上げております。
 右、とりあえずご挨拶まで。 敬具

 無造作に卓袱台に置かれていたので、思わず読んでしまった。けして悪気があったわけではない。活字があれば目が追ってしまうのは昔からの癖だ。そうして、内容を咀嚼する前に目は卓袱台の横に置かれた木箱に向いていた。夜神の拳よりももう一回りほどもある伊予柑でいっぱいになっている。色艶もいい。思わず口の中に唾が沸いた。ずっしりと重たい一個を手にとってぽんぽんと転がしているうち、その手紙の内容が迫ってきて夜神はぐっと眉をひそめた。
 卓袱台の向こうに寝そべって本を読んでいる友人は時折足をバタバタと泳がせている。夜神がぐっと黙ってしまったのに気付いたか、食べていいですよそれと言って寄越した。中腰だったからだを畳の上に落ちつける。どっかりと胡坐をかいて、卓袱台の上に伊予柑を転がした。手紙をきちんと折りたたみ、茶封筒にしまう。汁で汚れてしまわないように新聞の中にはさんで、伊予柑の臍に爪を立てた。指の腹が汁で汚れる。ぱっと柑橘類のにおいが四畳半に広がった。ぶあつい皮を剥き、房に分ける。すじをすっかりとってしまってから、口の中に放り込んだ。果汁が広がる。うまいと思う。
 そうしていると、ごそごそと友人が起きだしてくる。においにつられたのだろうと思っていると、案の定、ひと房下さいと言って寄越す。夜神はさくさくと房を分け、一つをちり紙の上にのせて友人に寄越した。夜神が房ごと口の中に入れているのを見てくちびるを尖らせている。伊予柑の皮は、ふつう食べないでしょう。うちでは食べるんだよ、好みの問題だろ、嫌なら剥けよ。剥いて下さいよ。なんで僕が……。
 いつもの調子でそう会話をしていると、ふと先程の手紙の内容が思い出されて夜神は黙ってしまう。ぱちぱちと瞬きをし、らしくないとため息をついた。友人はちり紙の上にのった伊予柑の房を人差し指でつついてはぎょろぎょろと目を動かしている。それに手を伸ばし、慎重に皮を剥いてやった。ん、と友人に寄越すと、彼は夜神の手にあるのに直接口をつけてくる。……動物か。綺麗に皮のみが残ったのを見て、夜神はもう一度ため息をついた。
 皮の上にもう半分残っているのを、二人で分けた。なんならいくつか持って帰ってくださいよ。友人がそう言うのでありがたくいくつか頂戴してゆくことにする。日当たりの悪い四畳半は、四時ともなれば灯りをつけないと薄暗い。そういう、ぼんやりした空間の中で二人でもそもそと伊予柑を食べている。無言である。いつもならどちらかの言い分に上げ足をとりあっては喧嘩になるのが常であるのに、それがいつまで経っても始まらない。原因は判っている。夜神が我慢しているからである。なんのことはない事柄であるが、生来生真面目な性分なので気になって仕方がない。そうして伊予柑を二人で四個ほど平らげたとき、卓袱台の上の様子を見渡して友人が、ああ、と声を上げた。手紙、置いてませんでしたっけ。……そこ。新聞紙を指差して、皮を片付ける。彼は新聞紙を摘みあげて中の手紙を取り出した。丁寧に折りたたまれたのを確認して、懐にしまう。そのあたりをぽんぽんとてのひらで叩いて、そうして今気づいたとでも言うように夜神をまじまじと見つめてきた。……中身、読みましたか。読んでない。読んだでしょう。読んでないってば。面白いものを見るように目をぎょろつかせる友人の様子が見ていられなくて、夜神はずっと視線を避けている。とうとう友人の手の中から新聞を取り上げて、紙面に目を通し始めた。朝、すでに読んでいるはずの記事はちっとも頭の中に入ってこない。
 別に気にしなくていいですよと友人が楽しそうに言った。でも夜神くんがこうして気を使ってくれるのはちょっと気持ちがいいです。それを聞いてますます夜神は眉をひそめるが、そうすると目の後ろ、頭の真ん中あたりに而立の二文字がますますくっきりと浮かび上がってなにも言えなくなってしまう。

四畳半小宇宙(100328)