確か、夜食を買いに出かけようとしていたのだ、と夜神は考えている。夜神の家の前をまっすぐに、緩やかに続く坂道の頂上には小さな公園があり、そこから少し歩いたところにコンビニエンスストアがある。マンションの一階のテナントに入った店舗である。住宅街の中でも比較的大きな通りに面してはいるが、深夜ともなれば車の通りなどないに等しい。そういう静まった空気の中で、そのコンビニは潜水艦のようにゆっくりと息づいている。ドアの開く音、電化製品の稼働している音、音量の押さえられたBGMと、極力呼吸をしないように努めている店員の生きている音。
 そういうことをぼんやりと考えながら、夜神は坂をのぼっている。ボトムの尻ポケットには財布がねじ込まれていて、その圧迫感が夜神の神経を鋭敏にしている。少し寒いような、春の夜である。着の身着のまま家を出てきたので、指先がしんと冷えた。鋭敏になった聴覚はあるはずのないものも拾ってしまう。先ほどからずっと、金属の擦れるような音が夜神の鼓膜を震わせていた。
 視線をあげると、丸い月がある。夜神は夕食のときにテレビで放映されていた話題を思い出す。今日は、月に二度目の満月である。数年に一度、そういう現象が起こる。そういうとき、二度目の満月をブルームーンという。……昔、そういう歌があったわあ。ぜんまいの佃煮を箸でつまみながら懐かしそうに母親が呟いた。
 ぽつりぽつりと立っている街灯の下、人影がごそごそと動いている。夜神はじっとその影を見つめながら息を潜めた。オレンジ色の灯りに白いシャツが染まっている。肉のほとんどついていないような、薄い背中がぐっと丸くなる。すっとその横を通り過ぎようとすると、その背中がびくりと動いた。……すみません、なにかくるめるような布はお持ちじゃないですか? 背中は振り向くことなく、夜神にそう寄越してくる。呆然とそれを見つめていると、男はこう続けてきた。子猫が三匹も捨てられているんです、春とはいえまだ寒いのでかわいそうだ。捨て猫ですか? ええ、……ひどいことをする、一匹は怪我をしているんです。
 夜神はふと思い立ち、首に巻いていたマフラーをほどいた。布幅が広いので、子猫の三匹ならば余裕をもってくるめるだろう。二年前の誕生日に妹がプレゼントしてくれたものだが、こういう理由ならば彼女も許してくれるだろうと夜神は思った。簡単に折り畳み、うずくまっている背中にそれを差し出す。彼はありがとうございますと言ってそれを受け取った。確かに、彼の手元からみゃあみゃあと鳴く声がする。
 ……このお礼はいつか必ず。いえ、大したことでは。白い背中を見下ろしながら夜神がそう寄越すと、男はそこで初めて振り返った。黒い髪が揺れる。重たい前髪の下のくちびるがにっと笑う。そんなこと言わないでください夜神くん、なんなら今度私の屋敷にこのこたちを見に来てください、……ああ、今日は月が青いですねえ。
 坂をのぼりながら、夜神は少し首をすくめた。にわかに首周りが冷える。そうしてぼんやりと月を見上げた。雲一つない夜だ。輪郭もくっきりと空に浮かんでいる。夜食には、なにを買おうかと夜神は考えている。すると、なにかひらひらしたものが額に張りついた。指で摘みあげると、桜の花びらである。目の先に、塀からはりだした桜の枝がある。街灯に照らされた黒い枝が、ぐっと迫った。満開に咲き揃った桜の花が枝を重たくさせている。ふとその塀の上にぶらぶらと揺れる足がある。小さなデニムに包まれた、細い足。覗きこむと小さなこどもが塀の上に座り込んで、桜の花を熱心に見つめていた。……危ないよ。思わずそう声をかける。小さなこどもが起きているような時間ではない。
 こどもはちらりと夜神に視線を向けて、ぱちぱちと目を瞬かせた。危ないのはあなたのほうです、もうすぐここに殺人鬼がやってきますよ、早く逃げてください。……なんのこと? 笑み交じりに夜神がそう応えると、こどもはいらいらしたように爪を噛んだ。もうすぐここに死体を埋めにやってくる輩がいるので、私はそれを待ち伏せしているんです。
 梶井の小説にそういう話があったなと夜神は思う。……それは御苦労さま。馬鹿にしているでしょう、こどもだと思って。別に、そんなこと思っちゃいないよ、そうだ、これから買い物に行くからなにか買ってきてあげよう、張り込みはお腹が空くだろう?
 そう夜神が提案すると、こどもは満更でもないふうに瞼の下できょろきょろと目を動かしている。そうして、仕方ないですねえと呟いた。夜神はつい苦笑いをしてしまう。こどもは足をぶらぶらと揺らしながら、首を巡らせた。目線の先に、大きな満月がある。しかしよりによってこんな月の青い日に……。
 坂を踏みしめる足がだんだんとだるくなってきた。公園の時計塔が、もうすぐ目の先に迫ろうとする。コンソメポテチと、なにかあたたかいものを買って帰ろうと考えている。そうして坂の頂上を踏みしめ、一つ息を吐いた。公園の突きあたりを右に曲がると、じきにコンビニの灯りが見えてくる。その後ろからペタペタと近づく足音がする。振り返ると、夜闇の中から白いシャツがぼうっと浮かび上がって、やがてそれはLの形になる。寒いのか、マフラーをぎゅっと首に巻き付けて、不機嫌そうにくちびるを尖らせた。
 遅いじゃないですか、待ちくたびれましたよ。……待っててくれなんて一言も言ってないけど。……そこはそこここはここですよ。彼の右手からじゃらじゃらと音がする。そうすると、やにわに左手が重たくなった。懐かしい重みである。それで、なにを買ってくれるんですかとLは言った。カスタードまんでいい? ミルクティもつけてくれたらそれでいいです、ああ夜神くん、今夜は月がこんなに青いですねえ。見上げた先に真っ白な満月がある。それを見上げながら、どうでもいいけどそのマフラー、早く返してくれよと夜神は考えている。

漱石先生(100425)