最近それは思ってもみない形で現れる。今、夜神は缶コーヒーを買うために財布の小銭入れを開けているが、五円硬貨の穴の向こうからそれはじっと夜神を見つめている。ふと同じ視線を感じて焦点を合わせると、違う五円硬貨の穴からもあの目玉が覗いた。残念ながら五円硬貨は使えない。夜神は必要な硬貨を取り出してパタンと財布を閉じる。
例えば、椅子に座って手帳を読んでいると目の前の文字がうねうねと寄り集まって目玉の形になる。手帳をパタンと閉じてまた開くともうアレはいなくなっている。人通りの多いビル街を歩いていると右手のビルの屋上から最上階にかけて足の指がのそりとおおっている。それから視線を上げていくと巨大なアレがビルの屋上で、あの恰好のまま夜神を見下ろしている。あの大きさならば泥のような目は夜神を飲み込んでしまうだろう。それから目をそらすといつの間にかいなくなっている。そういうものだ。最初は目に入る鉢植え全てからアレの体の一部がとびでていたものだから、さすがの夜神もできうる限り観葉植物を全て処分してしまった時期があった。それからというもの、アレは見境なくいろいろなものから生えてくるようになった。
夜神以外には見えていない。さすがのリュークにもアレは見えないようだった。だとしたら夜神の内因的なものに違いない。もう少しで忘れられるところだったというのに、こういうときに出てくるということはなんらかの警告だろうか。思えばあれからもう二年程経つが、表立って大きな問題は起こっていない。着々と礎の建設は続いてはいるが、中だるみしているといえば、そうだ。今思えばあれも退屈凌ぎには丁度良かったのだ。
アレが声を発するのにそう時間はかからなかった。プルトップを立てた瞬間に飛び散ったコーヒーの滴がデスクの上の書類に染みを作っている。ロールシャッハテストみたいなものだ。細かく散らばった茶色い染みは人の顔の形に見えなくもない。
夜神くん。
茶色い染みはもう一度夜神を呼んだ。口元をつりあげて、夜神は飲み干した缶をその染みの上で傾ける。ポタリと滴が染みを塗りつぶしたので、もう声は聞こえなくなってしまった。
その代わり、デスクの下に伸ばしている足にひたりと吸いつくものがある。覗きこむと、アレの上半身が床から生えていて、夜神の膝に頭をもたれさせた。ふとなんとも言えず暖かな気持ちになり、その頭を撫でてやると、すりすりと膝に頬を擦りつけてくる。泥の目が夜神を向く。抱き上げようにもアレは床から生えてきているのでそういうことは無理なのだ。夜神は気の済むまで髪を撫でてやったあとはアレの好きにさせておいた。最近は弥が長期ロケで留守にしているので、欲求不満になっているのかもしれない。キリのつくところまで書類を片付けて下を見下ろすがアレはまだとどまって夜神の膝に顔を押しつけている。さすがに髪を掴んで引き剥がそうとするがそうした途端にパチンとはじけてしまった。一つ溜め息をついてデスクの書類に目を戻す。時間を確認しようと顔をあげた先、ディスプレイの上に目から上だけのアレが、夜神をじっと見下ろしている。泥の目は夜神にも判るぐらいにはっきりと嫌悪を浮かべていた。ハハ、と夜神は笑ってしまう。拗ねるなよと口元を引き伸ばしながらディスプレイの上のアレに手を伸ばそうとするが、左手のドアから松田が顔を覗かせて、アレ月くん一人?と訊いてくる。
いえ、今竜崎が。え?松田の顔にはっきりと嫌悪が浮かんだ。いえ、冗談ですよ、白昼夢でも見たかな。はは、それならいいや、疲れてるんなら適当に休憩した方がいいよ。そのとき夜神の内側からうっかりと大きな感情の波が押し寄せてきそうになり、すんでのところで押しとどめた。それは確かに悲しみだった。夜神にはやはりあれしか駄目だったのだし、あれだって夜神しかいなかったのだ。同情ですか。ディスプレイの上のアレが言う。ああそうだ、あんなにやったのにお前はついに認められなんかしなかった、野垂れ死にだ。
そうですねと言うアレの目はまさしく同じことを夜神にも返してきたので、夜神はてのひらで顔を覆って一つ深い息を吐いた。思い切り右手をディスプレイの上に突き出す。しかしそうする前にアレははじけてしまう。それは、やはり悲しみだった。
ある悲しみ(070326)