車の中からでは感じ取れない外気温が、坂井の頬を刺した。思わずジャケットの頸元をかき寄せる。助手席に放り込んであった木製の義手と、ガソリンの入ったボトルを掴み、坂井は堤防を下った。じきに足は砂にとられる。目線を上げれば視界を灰色の水平線が分けた。冬の海というのは何故かいつも彩度が低い。天候の関係もあるだろうが、と坂井は頸を曲げた。海よりは彩度の高い、それでも曇天が広がる。
 下村が死んで三週間ほどだろうか。日にちの感覚がほとんどないことに坂井は驚いている。それでも部屋は片付けて引き払わねばならず、漸く坂井は重い腰を上げたのである。しかし実際に片付けたのは高岸と安見だ。女手に安見を、とレナに行ったら高岸がいたという寸法である。数時間後にレナで、と約束して、高岸と安見は連れ立って下村の部屋に、坂井はレナで時間を潰した。
 高岸と安見が帰ってきたのは、坂井が何杯目かのコーヒーのカップを持ち上げた時であった。ブレーキも荒荒しく車の止まる音がしたかと思うと、安見が息を荒げて扉を開けた。ほとんど叫ぶようにして坂井を呼ぶ。
「聞こえてる。そんなに叫ぶことはないだろ」
「あるのよ」
 と目尻を赤くして安見は云った。足音荒く、カウンタに坐っている坂井に近づきその目の前に右手を突き出した。
 下村の、義手だった。
 ベッドの下に埃にまみれて転がっていた、と安見は云う。坂井は、遺体を引き取りに来た下村の姉が細細とした物は全部持っていたのだと思っていた。部屋に残っているのはベッドなどの大型家具だけだと。しかし坂井がその場に居合わせたわけでもなく、安見がほとんど生前の部屋そのものだったということから、彼女は本当に遺体のみを引き取って行ったのだと、坂井は勝手に納得した。
 火葬してやろうと思い立ったのは、そのコーヒーを全部飲んだ後だった。

 砂浜に義手を置き、ガソリンをかけ、ジッポで火を放れば音をたててそれは炎に包まれた。煙を避け、坂井は風上に回りこむ。靴で砂を均し、腰を下ろした。煙草を取り出して火をつければ、空にあがるのは二筋の煙だ。隣に熱を感じた。
 下村がよくつけていたのは木製の義手ではなく、青銅のそれだった。少なくとも下村が木製の義手をつけていたことを坂井はほとんど見たことがない。専ら部屋の飾りだと云っていたのを思い出し、坂井は苦笑いをした。
「あの格好付けが」
 木じゃ軽すぎるんだ、と。
 ブロンズの義手を振り回し振り回し云う、その声を波音を合間に聞いた。立てた膝の間に組んだ手がかじかみ、坂井は何度も手を組み直した。
 左手を失った後とその前を比べるまでもなく、下村は確かに人に与える印象を変えた。店のフロアマネージャーをこなすようになってからは特にだ。ともすれば、坂井は下村がここにやってきた理由が女だったということさえ忘れてしまうこともあった。スーツに、左手の義手に白い手袋を被せた下村がそうさせた。
「螺子一本飛んでたよな」
 左手を失ったと一緒にだ。変貌の理由はそれだろう。一線を踏み越えてしまった達観のようなものを坂井は下村に感じ、しかし坂井はそれを見ていながら下村と同じ場所に立つことをしなかった。いうなれば役割分担である。下村はそれに了解していたが、時折坂井をいやに冷めた目で見ていた。そこにあるのは嘲笑か、それとも。
 横を見ればほとんど灰になっていた。くすぶり、黒い煙を上げる。赤い火が見えなくなるのを待って、坂井はそれに砂をかけた。満潮になればこのあたりは海だ。
   下村が、ここに繋ぎ止めたかったもの。左手を模った木の塊よりは重く、ブロンズでできたそれよりは軽い。いや、同等か、もしかしたら足りなかったのかもしれない。
「寒ぃ。」
 冬であった。

差し出すことはしなかった(winter, 2002)