床に散った雑誌を拾いあげた。去年の夏のものだった。上向けられた表紙をなでればてのひらにざらざらとした感触が残る。暇つぶしにめくってみるが、ところどころにはさみで切り取ったあとがあった。目次から察するに自分たちの記事であることは容易に想像がついた。雑誌を置き、本棚を振り返る。スクラップブックを取り出す。思ったとおり、雑誌とスポーツ新聞の切抜きが貼り付けられてあった。安仁屋はスクラップブックを元に戻し、着込んだジャケットの中から御子柴の家に来る前に買い求めたコーヒー缶を取り出す。空調のない御子柴の部屋は凍えるように寒く、吐く息が白い。
 ごみ置き場で拾い修理して使っているというテレビの電源をいれ、小さなこたつに這い寄った。足をつっこみスイッチをいれる。テレビの雑音の遠く下、低音が響き、安仁屋はこたつ机に頬を寄せた。触れたそばから体温を奪っていく机板が十分に温まるには、まだ時間が必要だった。テレビはワイドショーを垂れ流している。チャンネルをかえるにはそのたびテレビ本体に手を伸ばさねばならなかったが、こたつに入ってしまうとそれも面倒で、背を丸めてコーヒーをすすった。安仁屋の二倍の年かさのパネラーが弁論を振りたてているが、右下に出されたトピックを見ても興味のわくような代物ではない。極力おさえられた音量であったので、早送りににしているとしか思えない口の動きのはやさは、滑稽にしかうつらなかった。
 安仁屋の高校卒業後の進路はすでに決まっている。今年の春からは社会人でプレーすることになった。大学に行くのははなから無理だと思っていたので嬉しい誘いであった。それまでパイプもなにもなかった高校に、連絡があったときの職員室の騒ぎようは興奮気味に電話越しに伝えられた。二つ返事で入社が決まった。……東京を出ることになる。
 地方といっても社会人野球ではそれなりに名の通った会社である。都市対抗の常連だった。世を知らない親戚などはプロを匂わせたがそこまでは考えられない。働きながら野球ができるのであればそれ以上のことはないと思った。
 コーヒーを飲み終えて机に突っ伏した。こたつ布団を手繰りよせて肩にかける。伸ばした足がすうすうとするので、布団を捲り上げると、向こう側の布団が足らず床の上にまっすぐ光の筋が漏れた。直すのも面倒くさく、安仁屋は足を畳んでもう一度机に頬を寄せた。時計は二時半をまわったところである。

「お前、マメだな」
 タオルを首元に巻かれ、ビニールを広げたのを被せられながら安仁屋は呟いた。作業を続ける御子柴の耳には届かなかったらしく、御子柴は、は?と後ろから安仁屋を覗き込む。
「全部とってあんの?」
 指差した先を見て御子柴は納得したらしく、相槌とも肯定ともとれるような声を出して、作業に没頭する。ひっつめた安仁屋の髪を持ち上げ、ビニールを洗濯バサミでとめた。テレビはすでに夕方のドラマ再放送に切り替わっている。
 裸の足が新聞を踏みしめる。こたつの上のビニール袋からはさみと、髪留めとくしを取り出して御子柴は安仁屋の後ろに立った。髪を結んだゴムを抜き取る。頬に髪がかかった。
「いつ出るの?」
「もうちょっと先。まだ荷造りしてねえし」
 そう、と御子柴は言った。くしのとがった先端が、ゆっくりと髪を舐めていく感触が安仁屋の思考を支配した。髪留めがパチンパチンと音をたててふさをつくっていく。
 あ、悪い。ちょっと待ってて。霧吹き持ってくるから。あわただしく御子柴が部屋を出て行く。安仁屋の斜め向こうに石油ストーブが焚かれ、その上でやかんがしゅんしゅんと音をたてた。ゆっくりと部屋の空気が温もっていく。顔を照らすほど近くではなかったが、足先に血が通っていくのが判る。敷かれた新聞紙は乾いて波立った。
 やがて御子柴が戻ってくる。霧吹きの中の水を揺らせて、裸足の足指は目をつぶりたくなるぐらいに赤く染まった。安仁屋の髪に水を吹きつけ、うなじにかかった水滴を払う指先でさえ同じようなので、少しはストーブにあたれと安仁屋は言いたくなった。でさ、休みとかってとれるの?さあ、判んね。でもさあ……。口篭った御子柴はまるで安仁屋の決定的な一言を怖がっているようだった。その沈黙があんまりだったので、安仁屋は少しの間だったが言葉を失った。顔を伏せるとストーブの熱がやにわに額を赤くした。それから、御子柴はなんでもない風に安仁屋の髪に触れる。
「切るけど、本当にいいの?」
 くどいよお前、ここまできて。溜息に等しい呟きが、空気に霧散するやいなや、はさみの入る音がした。そのはさみの感触、御子柴の指が髪を引っ張る力だの、ビニールをすべって新聞紙に髪が落ちる音、うなじにはりつく髪のくすぐったさや、この部屋の温度、テレビが映しているドラマのセリフ。安仁屋はここではじめて、自分はここから離れていくのだと思った。

二月の滑空(spring, 2004)