駅の彼はひどく疲れて見えた。左足に重心を預け、左肩にコカコーラのロゴの白いエナメルの鞄を、右手に携帯電話をぶら下げて彼は点字ブロックの手前で列車を待っている。だらしなくずりさがったデニムの尻ポケットにはブランド物の財布がつっこまれていた。水戸はその斜め後ろの自販機からコーヒーの缶を取り出すと、音をたてぬようにそっとプルトップを開けた。ブラックのコーヒーがくちびるの右端の傷にゆっくりとしみこんでいくのが判った。前髪がチカチカと視界のあちらこちらで跳ね返るのにはどうにも慣れず、水戸はなんどか瞬きを繰り返した。気のせいでもなんでもなく、三井はやはりその視界の隅のほうで陽に焼けたうなじと、ラグランスリーブのシャツの上からゆるく前に曲がった背骨をあらわにしている。
その背骨を見て唐突に思い出したことだが、あの時代、三井は時折水戸に対してなんでもない暴力を振るうときがあった。それは人気のない道の曲がり角のように唐突に、理不尽に行われた。例えば残暑の厳しい休日の昼、窓を開けた三井の手はそのまま水戸に向かってきたし、重苦しい雨の夕方には三井の前髪から雨が滴るのを水戸は覚えている。床に寝転がった脇腹にめり込む三井の爪先の感触は、はっきりとは言わないまでも水戸の記憶を静かに刺激した。三井さん。あの時うめくように言った名前を、水戸は随分長いこと忘れていたように思った。列車がホームに滑り込んでくる。水戸は三井の後ろに並んで一緒の車両に乗り込んだ。
西陽が水戸の左手からさしこんで、右手に握りこんだコーヒーの缶を鈍く光らせた。手すりにもたれて右を見やると、三井はあの時と変わらぬ横顔を晒して携帯を覗きこんでいる。気難しげに寄せられた眉根は、時折緩んでは柔らかな表情に変わった。陽に赤く染まった三井の頬が理不尽に水戸の記憶の底の砂を巻き上がらせ、つい三井に見入ってしまう。あんな平和な色をした三井の頬を水戸はついぞ見たことがない。
三井の暴力は水戸にとってはなんでもないものだったが、その後に必ずと言っていいほどついてくる三井の目の色が水戸にとっては我慢ならなかった。あんたいつまで加害者ヅラしてんだ。言い放った言葉は途中で切れた。三井のくちびるがひどく冷たかったことを覚えている。
三井の顔がゆっくりと水戸に向いた。水戸はそれに気づいたが、無視して三井の横の窓から外の景色がめまぐるしく流れていくのを見ている。三井は水戸に気づいたふうでもなく、ゆっくりと視線をずらせていって結局は自分の手元に戻っていった。水戸はその三井の指先があの頃と変わりなくテーピングで巻かれているのを好ましく思った。列車が駅に停車する。水戸は扉にもたれさせていた体を少しずらした。三井が足を踏み出し水戸の横をすり抜けていった。扉が閉まり、プラットフォームを歩いていく三井の背中が小さくなっていく。その中心を這う蛇のような背骨を水戸はじっと見つめる。
水戸はゆっくりと手の中のコーヒーの缶を傾けた。最後の一滴を舌を突き出して受けた。そういえば、三井の背骨はなぜかいつも塩辛かった。もうかすかにしか思い出せない三井の欠片を水戸はゆっくりと飲み込んだ。
塩の海(060402)