もたれかかった拍子に樹上の雪が落ちてきたのだろう、西田の胸の下はまばらに雪で覆われていた。隕鉄がしきりに西田の頬を鼻先で撫でさすっている。おい西田、死んでいるのか。意味のない問いを新城は口に乗せ、次の瞬間恥じた。辺りに転がっている野盗の死体を一つ二つ踏み越え、おい西田ともう一度呼びかけた。凍りついた睫毛がピシピシと音をたてている。西田は、青くなったくちびるでひどいなあと漏らした。千早の鳴き声で掻き消されてしまうような、かすかな息だった。
帰順命令が出ているのに、なにをしている。おかげで大隊長にどやされるのは僕なんだぞ。……少し、休んでいただけですよ。隕鉄が耳を下げて新城を見やった。その顎の下に手を入れてやりながら、新城は後ろの療兵に目配せした。千早の遠吠えで集まってきた一隊が野盗の死体を片付け始める。西田のためにそりが用意された。左右のあばらを数本骨折、右腕に裂傷を負っていた。無様だな、新城がそう言うと、へへ、と西田は笑った。初陣でこの数だ、よくやったほうじゃないですか。二山に積まれた死体に油がかけられている。そのにおいを嫌ってか隕鉄と千早が鼻を新城のマントに擦りつけた。話はあとで聞く、処分は追って下される。
先輩。
新城は毛布にくるまりそりに載せられた西田のくちびるを目で追った。朝もやの中の雪のように真っ白だった。それが、死体につけられた火に染まって赤くなっていく。まるで生きているみたいじゃないかと新城は思った。なんだ、西田、弁明はあとで聞くとさっき言ったはずだ。西田は顔を背けた。少しだけ赤みの戻った顔から、うううとうめく声が聞こえた。
西田が言うより早く、死体の傷跡が人の手によってもたらされたものではないことには気づいていた。雪に深く埋もれた一つ二つには銃剣の傷もあったろうが、致命傷になっただろう噛み切られた首の切り口は、明らかに獣の牙によるものだった。本部に送られ、ベッドにくくりつけられた西田は今頃思い知っていることだろうと新城は思った。負傷した将校ほどお荷物なものはない。足をのせるたびキュキュと鳴る廊下を行きながら、新城は小脇に抱えた書類の束に目をやった。査問にかけるまでもない、そう言って大隊長は煙草を吐き捨てた。血を見たことのない少尉のお守りも大変だな、中尉。労いの言葉は歪んだ口元から発せられた。新城はじっと大隊長をねめつけていたが、目が疲れるのでふっと視線を足元に落とした。足袋が埃で汚れていた。しかしこの足袋が赤く濡れるほどの戦場には、僕もあんたも浸ったことがないはずだ、そう思った。
ベッドにくくりつけられた西田は新城が入ってくるなり露骨に眉をひそめた。不遜だぞ西田。そんなことにこだわる性質でもないでしょうが。露骨に過ぎる、大隊長にもそんな態度ではなかったろうな。まさか。持ち上がらない右手に舌を打ち、西田は左手で新城から書類を受け取った。処分の内容の書かれた紙切れ一枚が、西田の手の中でつぶれた。お咎めなしですか。ああ、養生して早くそれを治すことだな、小便くらいは自分でしたいだろう。バカな、今だって自分で。眉尻を下げ笑っていた西田の顔が見る間に凍った。先輩、あなたに処分が。
状況判断に誤りがあった。野盗は根城を三箇所に分散させており、本丸に二隊、残り二つに一隊ずつをあてがった。踏み込んでみれば本丸にいたのは五人ばかり、ほとんどが西田一隊の向かった廃寺に移動していた。床板を外して掘られた地下道を見下ろし、新城は血のにおいをかいでいた。野盗のではない。犬歯が唇に食い込んでいた。
当たり前だ。新城はそう言い、丸椅子から立ち上がった。隕鉄は元気にしてますか。ああ、食欲も旺盛だ、お前に似てな。褒めてやってくださいよ、初陣で、あの数だ。吊り上げた口元がだんだんと下がっていく。とうとう左手で顔を覆った。細めた目の奥、白いのが赤く染まっている。
獣が人の体を食い破るのを初めて見たのだろう、西田は顔を蒼白にしている。恐らく眠れていない。あの牙がいつ自分に向かってくるかを考えているのだろうか、新城には思いも寄らなかったが、しかしありうることだとは思えた。人に慣れているとはいえ彼らは獣である。しかし、そうでありながら軍属だ。
西田少尉。は。君は剣牙兵だ。
言葉の意味を捉えかねているのか、怪訝な顔で見返してくる。新城は口を引き結んだまま西田の髪に触れた。千早の毛に似て柔らかだった。早く隕鉄と僕を楽にしてくれ。返事を待たず病室を出た。扉の閉まる頃にようやく、空気を裂いて敬礼の声が聞こえた。程なく、遠く虎舎から遠吠えを聞いた。
往く道(060507)