重たそうな引き戸だった。春日井の軽く陽に焼けた手に一瞬血管が浮かび上がり、ズ、と重々しい音をたてて戸が開いていく。北向きの玄関に陽は入らない。薄暗いのに外以上に重たい空気が板張りの床の辺りに沈殿している。三和土に並べられた靴は予想外に少なかった。くたびれたビーチサンダルが少しだけ斜めを向いて転がっている。春日井はスニーカーを脱ぎ捨てて板張りに足をのせていく。二階だよ。中島を向いてそれだけを言うと、春日井は目の前を横切る階段をタンタンと上がっていく。五段目で、中島をまた振り返った。誰もいないから、おかまいなく。中島はそれでも、小さな声でお邪魔しますと告げると靴を脱いだ。床に上がるときに、春日井の靴も揃えておいた。
 くらくらするような階段だった。壁から階段の板が突き出していて、中島の腕の太さぐらいしかない棒が一本ずつ板を天井から床まで貫いている。板の隙間からは一階の床が覗き見えた。掃除機や雑多なものが階段下に置かれている。怖いでしょ。これは、ちょっと怖いね。慣れない人は絶対にそう言う。慣れた?十七年住んでるからね。春日井の足取りは軽い。中島は左手を壁に沿わせて、一足ずつ慎重に足を運んだ。
 階段から折り返して廊下の奥の部屋で春日井は立ち止まり、手垢で黒ずんだノブをひねる。押したドアからわずかばかりの陽が射した。埃がキラキラと弾けた。
 部屋の右手が南になっている。ほとんどなにもない部屋だった。陽があたらない東側の壁は本棚で埋められている。部屋の真ん中にぽつりと置かれたテーブルの上には灰皿が置かれた。適当に座って。踏みしめた畳が足の裏に硬かった。
 春日井は部屋の奥の本棚から抱えられるだけの本をつかみだしてきて、テーブルの上に積んだ。私お茶持ってくるから、読んでて。中島は促されるままに畳に膝をついた。スカートのプリーツに気を飛ばしながら、ここはなんというところだろうとふと思った。

 だれそれのなんとかいう本が見つからない。図書館に行っても駄目、古本屋に行っても駄目、インターネット書店では絶版の印がついている。そういう話を図書室で、司書の先生と愚痴っていたところだった。図書室ではあまり見かけないふわふわの茶色い髪がカウンターに現れたかと思うと、それなら持ってる、と言う。そこで中島は面食らってしまって、なんで、と暴言を吐いてしまった。当の春日井はなんでって言われても、と口をごにょごにょさせた後、中島の暴言にも関わらずパッと表情を変えてにこやかにうちにおいでよと言う。
 春日井と中島はクラスメイトで、高校二年になった最初の日に初めて顔を合わせた。芸術科目でクラスの別れる一年次とは違い、二年次からは文理選択でクラス分けがなされる。後から聞いたところによると、春日井は書道選択ということだった。筆を持つときにはあの長いふわふわの髪を一つにまとめて、大きな目を眇めているのを中島は想像した。
 そのときは顔を合わせただけで、言葉は交わしていない。それからも必要最小限に話すだけで、中島と春日井は特別親しくはなかった。春日井が属しているのは比較的派手めの女の子達が集まるグループで、いつもひっそりと窓際で本を読んでいる中島とは交わるわけもなかったのだ。
 うちって、どこ。中島はカウンターで春日井の差し出す本の貸し出し処理をする傍ら、訊いた。学校の近くだよ、歩いて五分。五分?近いな。距離で学校選んだもの。ふうん。相づちを打って処理を終えた本を差し出す。本を受け取る春日井の指の先には綺麗にパールが散った。
 それで、どうする?うーん、それじゃあ、本を借りるだけ。えー、いいよ、本ならいっぱいあるから、夕方までうちで時間をつぶせばいいよ、中島って自転車通学でしょ、こんな陽の照ってる昼に外出るもんじゃないよ。
 図書室の仕事が一時半まで残っていると言うと、春日井はまたにこやかに待ってると言う。カウンターから離れた春日井はエアコンから一番遠いテーブルに座ってテキストとノートを広げ始めた。中島はそこで思い出したのだが、そういえば春日井は学期が始まってから向こう、放課後はずっとそこでテキストとにらめっこをしていたのである。

 テーブルの上の本に手を伸ばした。そこには間違いなく中島の探していた本があった。うなじのあたりに涼やかな風が当たる。いつのまにかエアコンのスイッチが入れられている。表紙からぱらぱらとめくっていると、後ろのドアが開き春日井が入ってくる。麦茶の入ったタンブラーを両手に足でドアを閉めると、中島の向かいに座って積み上げられた本の一番下のハードカバーをだるま落としのように引き抜く。化粧を落とした春日井は、やはり春日井のままである。指先にパールが散っている。
 中島は本を読み始めた。春日井もなにも言わぬまま、目を眇めてハードカバーに熱中している。タンブラーの中で氷が音をたてる。こころが震えるのを感じる。

 ねえ、なにあれ。スカートのプリーツに気をつけて、春日井と同じように畳に寝転がると北側の壁が目に入る。何十個とも思える煙草のパッケージが壁にとめられている。一番上から、マイルドセブン、セブンスター、キャビン、クール、マルボロ、ラーク、キャメル、キャスター、中島は声に出して銘柄を読み上げていく。その銘柄ごとに重さの違うののパッケージが横に並んでいく。
 兄貴だよ。そっか。ここ、兄貴の部屋だから。勝手に入っていいの?もう盆と正月にしか帰ってこないからね。そっか。この本も兄貴が買ったんだよ。そっか。でも今は私のだけどね。
 部屋がにわかに黄色みを帯び始める。夕暮れの近づく兆候である。エアコンはすでにスイッチが切られ、春日井が運び込んできた扇風機がわずかに温もった空気をかき回している。タンブラーの中身は既に空だ。中島は首のあたりにかいた汗がうなじの方に流れていくのを感じる。
 そろそろお暇しようかな。そっか。テーブルの向こうから春日井が顔を横に向けて、中島に向かって微笑んだ。中島もまた微笑み返した。春日井の手元には、既に読み終わったのだろうハードカバーが二冊、積まれている。ねえ、その前にコンビニに行こう。うん。なぜなら今日は私の誕生日だから。そっか。中島はふと、それで私を家に誘ったのだろうかと思った。自意識過剰な考えだと思った。
 階段を下りていくとさっきまで静やかだった家がにわかに熱を帯びているのを感じた。キッチンのあるだろう方向から包丁の音と、なにやら煮炊きのする音が聞こえる。春日井はずんずんと階段を下りてドアの向こうに入っていくと、中島を手招きする。リビングのテーブルにはテレビのリモコンと新聞とノートパソコンが置かれている。
 中島さんと言います。中島です、亜矢子さんのクラスメイトです、お邪魔しています。春日井の母親は包丁を片手に、びっくりした顔を作ったがすぐさまそれをかき消して笑んだ。いらっしゃい。そこのコンビニに行ってきます、なにか買ってくるものはありますか?うーん、今のところないわ、いってらっしゃい。なんという家族だろうと中島は思った。
 いつも敬語なの?コンビニに行く道すがら中島は春日井に問う。うん、なんでか敬語だね。スッピンの春日井の頬と額のあたりが陽に照らされて赤く燃えている。茶色い髪がいっそう赤く染まって、ふわふわと肩の辺りで揺れた。こめかみの辺りがじわじわと水分を浮かせる。夏の夕方というのは暖色で構成されている。東に浮かぶ入道雲の影までもがうす赤く染まる。膝の出るボトムをはいた春日井のふくらはぎが、その中でいっそう白く輝く。中島はなにかまぶしいものを見るように目を眇める。この気持ちを、なんと言うのだろうと思う。
 小さなケーキとプリンを一つずつ買って、春日井は雑誌コーナーで雑誌を立ち読みしている。中島はその正面のコスメコーナーでなにかに打たれたようにキラキラと輝くパッケージを見ている。中島もちょっと化粧をしてみたらどう。肩の辺りから聞こえてくる春日井の声に生返事をして、中島は淡青いマニキュアに手を伸ばす。パールが入っているのでチカチカと光る。それいいね、かわいいね。うん。私、買おうかな。うん?春日井もまた同じボトルを手に取る。
 じゃあ、誕生日プレゼントにしようと言って中島はレジに向かった。戻ってきた中島に春日井はびっくりした顔をしたが、すぐにそれをかき消して笑んだ。言うのならば、とても愛しいと言うのだと中島は思った。

 部屋に戻って、一番に春日井はマニキュアのボトルを開けた。途端にあふれた有機溶媒のにおいに二人して顔をしかめ、大急ぎで窓を開ける。温い空気がとっぷりと溢れ出て床のあたりに押し寄せてくる。春日井は中島の裸足の指にそっと手を触れた。中島はスカートのプリーツを気にしながら右の膝を立てる。沈黙の合間を有機溶媒のにおいが埋めていく。ひそやかな春日井の呼気が足指に触れる。前髪をクリップで留めた春日井の額からまぶたの辺りが上から覗けた。マスカラをつけていなくても長いまつげが頬に影を作っている。
 中島は喘ぐように息をすると、目の前の壁に標本のようにとめられたパッケージを一番上から心の中で読み上げていく。一番下の、聞いたことのない外国の銘柄のタバコのパッケージにまで目を通して、中島はまた目を下に向ける。春日井は薬指の爪を撫でている。中島は今度は本棚に目をやって、その背表紙をなめていく。
 全部読んだの?全部読んだよ、なんかとても気恥ずかしい気がした。なんで。人の日記を読んでいるような感じ。ああ。しかも身内の。
 春日井は一つ息をした。中島は左の膝を立てる。親指に春日井が触れる。
 兄貴は家にいたときは読みたいって言っても絶対に読ませてくれなかった。仕方がないから図書館に行ったり自分で買ったりね。兄妹そろって同じ本を読んでるときだってあった。そういうときに限って兄貴は私が読んでるのと同じ本を持ってきて、しかもその続刊まで!これみよがしにリビングで読み始めたりする。このクソ兄貴。それなのに、いざ家を出てくときになったら本棚に入ってる本全部、私にくれてやるって言う。その中の一冊も持っていかないで、その代わりに他のものは全部持っていっちゃったから、この家に兄貴のものはこの本棚とあのタバコのパッケージとこの灰皿以外ほとんど残ってないよ。悔しいから本当に全部私のものなんだって思って全部読んだ。それで。
 中島は両膝を立てて、綺麗に淡青に染まった足指を眺める。まだ触っちゃだめだよ。うん。春日井が扇風機を向ける。有機溶媒のにおいがだんだんと薄れていく。春日井はビニル袋からケーキとプリンを取り出し、プリンを中島に手渡す。
 この露出狂め、と思った。
 春日井はそう言ってケーキにプラスティックのフォークを突き刺した。まあまあ。うん、ごめん。貰えるもんは貰っとこーよ。うん。そうして春日井は、中島学校で靴下絶対に脱いじゃだめだよと言って笑った。

 翌日の補習に春日井は少し遅刻して現れ、教室の後ろのドアからひっそりと入ってきた。その様子を中島は窓際の席から眺めている。テキストに隠すようにして昨日春日井から借りた本を開いている。薄いカーテンを通して陽がチラチラと机にはねかえった。まだ温もっていない空気がカーテンを揺らす。その隙間から中島は南の空に入道雲を見る。夏の朝は寒色で構成されている。その内部に城を隠している巨大な入道雲は、白く青く健全だ。
 春日井が中島に手を振った。翻った手の指先に、中島の足の指を染める色と同じ淡青が散っている。中島はとても幸せな心持ちになる。

かれの部屋のあした(060728)