磨きたてられた革靴の下には広大ななにかがある。老人はもう長いことそこに立っているが、いつからそこに立っているのか、どんな風にしてその間を過ごしてきたかがどうにも判然としない。この靴の下のなにかについての思考も、今思いついたのかもうずっと前から考えついていたのかも判らなかった。老人は腰の後ろの手を組みなおし、顎を下げた。靴の下のなにかは、視線を下ろさないでもゆっくりと動いているのが感じられた。海のようだ。
靴の下、その上に至るまで、老人の立っている世界は黒に塗りつぶされている。光源がないのではなく、それは老人自身なのだった。暗闇であれば自身の手の皴など見えるわけはないが、老人には自分の着ている黒のベスト、アイロンの効いたズボン、視界を区切る眼鏡のフレームまでもはっきり見える。しかし光はそれ以上を照らし出さなかった。靴のきわは漆黒で塗りこめられた。
ふと老人は首を左後ろに回してみた。うなじがざわざわとするのを感じる。初めての感覚である。爪先をその方向に向ける。その途端に高く鳴るカツカツという音に違和感を感じる。年相応に低下した視力でもその方向になにかがあるのが見えた。老人は、初めて一歩を踏み出してみる。
広大ななにかの上にガラス板が張ってあるのを想像する。靴を鳴らして老人はそれに近づいた。小指の先ほどの大きさであったそれがだんだんと大きくなり、しだいに人の形を成した。横たわっている。なにかしらの確信を抱きながら彼に近よる。後ろで組んだ手が汗ばむのを感じた。
果たして彼は老人の目の前に横たわっている。乱れたスーツは血で汚れた。歪んだ口元から盛大に血が溢れて首もとを濡らした。老人は膝を折り、彼の息を確かめた。そのとき頬に手を触れたが暖かなものを感じた。血はとうに乾いている。
夜神さん、老人は問いかけてみる。彼は、夜神は数秒ののち一つ呻いて瞼を震わせた。薄く開いたそこから白と黒が覗く。その瞬間、目を見開いた夜神は肘を使って体を起こし老人からあとずさった。血で汚れたくちびるがワタリとこぼした。
お久しぶりです。夜神は老人を凝視して動かない。よくよく見てみればスーツを汚す血も乾きかけている。覗く傷はなまなましく皮膚を食い破っているが、夜神はそんな重傷を負っている様子を見せない。老人は膝の上に置いた手を夜神に伸ばしたが、その分だけその体は退いていった。
あなたも殺されたんですか。質問は驚くほど自然に口から流れ出た。キラに、と付け加えようとしたが老人はなんとなく口を噤む。夜神は息を荒らして老人を睨んでいたが、ふと糸の切れたように頭を垂れた。その瞬間目に入ったのだろう、スーツが汚れているのを手で払い、どうにもならないのに気づいて一つ息を吐いた。
そうして周りを見渡す。暗闇があるだけである。また一つ息を吐いて視線を老人に向けた。夜神はなかば放心した様子で老人を眺め、投げ出した足を畳んで胡坐をかいた。血で汚れた手を組んでははなしを繰り返す。竜崎は、一緒では?
リューザキ。老人はその音をもう一度口の中で転がしてみる。リューザキ。長い間仕えた主人の名前だった。それも数あるうちの一つでしかない。彼自身自らの本当の名前を忘れているふしすらある。老人はそう思う。いいえ、彼は一緒ではありません、私はここに一人でしたので、しかし。言いかけて夜神がいるのだったら彼がいてもおかしくないことに老人は気づく。そうして、夜神に言われるまで彼にまで思考が及んでいなかったことに老人は気づく。老人は鼻の下にたくわえた髭を触りながら、夜神を見つめた。
竜崎もここにいるかもしれません、探しますか。ああ、そう、そうなんだ、竜崎が。言いながら夜神はてのひらに額を埋めていく。左手を肩の高さに上げ、老人の右斜め後ろを指す。アレは竜崎じゃないか、さっき気づいた、アレは。振り向いた先に、確かになにかあるのが見えた。しゃがみこんだ人の形にも見える。老人が目を細めるより早く、夜神は立ち上がっていた。引きずった足が無様な音をたてている。
なにをしているんだという夜神の問いに竜崎はチェスですと答える。盤も駒もないのに?そんなものなくたってチェスぐらいできます、ここで。と長い指が頭を指した。夜神はあきれた様子で竜崎の隣に座り込む。老人は立ったままである。死んでから、ずっと?ええ、ずっと。
竜崎はそこで初めて老人に目をやった。久しぶり。ええ。会話はそれきりで、視線は夜神に向いた。それにしても随分と男前になりましたね。皮肉はいいよ。皮肉のつもりで言ったわけではありませんが。皮肉にしか聞こえないよ。前髪をかき回した手をじっと見てその汚れ具合に顔をしかめる、その一連の動作に余裕がない。老人は夜神のつむじの辺りを見つめながら、この若者の意図を考えている。彼は人影が竜崎の形を成すなり走り出していた。その背中に焦りがあるのを見た。引きずった足は先程よりも重くなっている。
死んだら天国も地獄もないと言われたけど、死神に。てのひらの皴に血が固まっている。私もそう思います。ではここは?それを追求することに意味があるとは思いません、確かめる術がない。竜崎は立てた膝に顎をやって、薄く目を閉じている。彼の頭の中では今どれだけの速さで駒が動いているだろうか。誰かの夢の中かもしれない。竜崎はそう言って、口元を歪めた。ああでも、月くんの末路を見届けられて幸せですよ私は。
いつもは巧妙に隠すくせに、最後の最後で詰めが甘いんです、尻尾が出てしまったんでしょう、その銃創は逆上した松田あたりに撃たれたと推測しますが、いかが。
息を詰まらせて夜神はなにも言えずにいる。老人は哀れみをこめて若者を見つめる。老人は主人を嗜めようとしたが、それより早く夜神が応えた。ああ、そう、その通り。語尾がはねた。老人は若者のスーツに目を凝らす。固まりかけていたそれが、今流れ出したかのように鮮やかに濡れている。震えは意識的なものではない。老人は膝を折ったが、若者はそれを制した。充血した目が老人に向き、穏やかに細められた。竜崎、一つだけ質問だ。口元からはそれとともにどす黒い血が流れ出て、顎から首を濡らしていく。
あのとき確かに僕は記憶を失っていたが、取り戻してもその間の記憶を失ったわけじゃない、全部覚えているつもりだ、だけど僕にはあのころ僕がどんなものの考え方をしてどんな言葉を吐いていたのかもう思い出せない。
竜崎の目は動かずに夜神を見つめている。そうしているうち、新しく流れ出た血がスーツをさらに赤く染めた。血だまりができる量だ。もう、死にそうですね。馬鹿言え、とっくの昔に死んでるんだ。
竜崎は重たそうに体を持ち上げ立ち上がった。その辺りをふらふらとする。時折思い出しては爪を噛み、裸足の指をうごめかせた。十メートルも行かないうち、くるりと向き直って引き返してくる。裸足の足裏の感触はどういうものなのだろうと老人は思う。若者は、おそらくもう数分ともたないのではないかと老人は思う。荒い息は血煙を含んでいるようだ。頓着しないので口元から音をたてて流れ出ている。竜崎。老人は初めて主人の名前を呼んだ。
引き返してきた竜崎は座り込むことをせず、若者の目の前に立ってその頭を見下ろした。夜神にはもう見上げる力すら残っていないのか、眼球だけを動かそうとする。しかしそれすら失敗して、充血した目は瞼の奥に隠されようとしていた。
あの頃の月くんはあなたに嫉妬していましたよ。
一息に、竜崎はそれだけを言ってまた踵を返した。また一歩を踏み出そうとするその足首を、夜神の赤い手のひらが掴む。赤い手形が竜崎の足首を汚した。ホラー映画ですね。笑え、ないよ。全くと言って竜崎は笑った。
夜神の姿がない。あれから、靴の下の広大ななにかが波のように押し寄せて夜神を飲み込んでいった。竜崎はその一部始終を目の前で見ながら、口元を結びなおしてまた座り込んだ。夜神の残した手形が、ジーンズの裾から足首を汚している。竜崎はその赤を指先で擦りとって目の前に持っていった。
老人は、次は自分だということを確信している。そうしていながら、主人に向き直り問いかけた。なにか甘いものを?紅茶も、用意できるか?さあ、しかしなんとかしましょう。
竜崎の指先に赤が残っている。それを目を細めて見ているうち、竜崎の喉仏がわずかに痙攣するように動く。爪の間に入り込んだ血はもう取れそうにない。ワタリ、あとでチェスの相手を。はいと頷いて老人は主人の頭を見下ろしている。靴の下で広大ななにかがうごめいている。できれば、この主人に紅茶とケーキを用意するまではと、老人は祈っている。
後夜祭(060917)