上あごの歯の近く、薄皮がむけてうねになった肉がむき出しになっていた。舌で触れると案外と深い溝がずっと続いていて、こすっているといつの間にか塩辛いような味が広がった。血だ。じわっと唾がわいたのをどうにか飲み下したが、食道のあたりの違和感にうんざりするのも束の間、また舌の先はうねのあたりを強く擦っている。
 食パンにマヨネーズでぐるっと囲いを作り、その真ん中に卵を落とす。黄身がマヨネーズの土手からこぼれださないようにそっと持ち上げてオーブントースターに入れた。五分。そのあいだに着替えを済ます。弁当箱を三人分、引っ張り出して昨夜のうちに姉が作っておいたおかずを詰め、ご飯をよそう。トースターがチンと軽い音をたてる。普段は小さな音なのだろうが、薄ぼらけの早朝に音はないせいでひどく大きく台所に響く。マヨネーズとパンのふちががこげ茶色になっていて、あの独特のにおいがたちこめた。
 弁当とは別に三個、おにぎりを作り鞄に詰めた。卵焼きパンに立ったままかぶりつき、マヨネーズや白身の熱く焼けたところに上あごが触れた、あのとき、多分この火傷はあのときのものだと栄口は思った。
 始発列車にこもっているにおいは嫌いでない。乗り込むのは同じように野球部の大きな鞄を肩からさげている坊主頭の高校生の一団と、眠そうなスーツ姿のサラリーマンが数人で、心なしか軽い音をたてて外車は線路をかむ。人の少ないせいで最後尾からずっと前の方までが連結部位を通して見渡せた。カーブを曲がるときは、一直線に向こうのほうまで見えていたのが次々とゆがんでいく。背をあずけていた戸がトントンとノックされ、かちりと錠のかみ合う音がした。背中が横に滑る。車掌は失礼と一言残し栄口を置き去りにした。小さく、すんませんと返した。
 ふと、下に置いた鞄を足先でいじりながらさっきの坊主頭の一人が栄口を見ているのに気づいた。西浦は私服校だが標準服ぐらいはある。服を選ぶ時間が栄口には惜しい。
 栄口が、表布の破けたボールを手にしているのをじろじろと睨んでくる。栄口は気づかなかったふりをしてボールを鞄の中にしまった。ジッパーを閉めた途端列車が揺れ、無様に頭を壁にぶつけそうになり肝を冷やす。そっと彼をうかがうともう興味が失せたのか窓の外を見ている。むき出しのうなじが日に焼けていた。

 あ、野球部?うん。俺もー。おお。
 入学式の直後、席順は五十音に並んだ。窓際二列目、前から三番目の席が栄口の席で、その後ろが巣山だった。春休みから栄口が阿部と百枝と志賀でやっているグランド整備はまだ内野が終わったばかりで、外野は草をかぶっている。入学式が終わったら手は土に汚れるだろう。中学時代から使っている鞄は底の方のエナメルが擦り切れてはいるが使い勝手がいい。着替えもグラブも、勉強道具だって入る。
 栄口の机の横に、通路を阻めるようにして置かれたスポーツバッグを見て、巣山は首を伸ばしてきた。ジッパーの開いたそこにグラブをおさめた袋が覗いた。指をさされて取り出した。
 硬球用じゃん、シニア?うん。……セカンド?栄口の使っているグラブはオールラウンドだ。巣山は目を白黒させている栄口に口元をゆがめて見せた。なんとなくセカンドっぽかったから。ああ、そう、そう見える?サードって感じじゃないし、ショートだったら……。
 栄口はそこで、巣山のポジションがショートなのだろうと思った。巣山は一通り栄口のグラブの感触を確かめて、緩んでいた紐を締めなおした。サードもできるけどなと巣山は言った。漠然とそうはならないだろうと栄口は思い、手渡されたグラブを鞄の中にしまった。廊下から、教員が教室の中に入ってくるのが見えた。

 巣山はいつも寝ている。机の上に寝せた手首のあたりに額を置いて、休み時間はずっとそうして顔を伏せている。息をしていることすら感じさせない静けさが栄口の背中を上った。それが、授業の始まる寸前に一気に生き物の気配をさせる。巣山は授業中には寝ない。シャープペンのノートをすべる音や消しゴムのこすれる音や教科書をめくる音が、途切れることはない。それが授業が終わり教員が教室を出て行った途端にしぼんだ。
 そうやって休み時間は寝てばかりいるのを、周りの連中はからかって首元に水を落としたりする。すると巣山は一瞬だけ不機嫌な顔が覗くのだが、すっとそれは消えうせて、緩んだ口にやめろよばか、とのせる。つめてー。そう言って首元に手をやる。そのかっこうのまま、また机の上にうつぶせるともう誰も巣山をいじったりしない。
 巣山の開けっ放しのスポーツバッグから覗くコンビニ袋には緑茶のペットボトルが透けている。白い膜を通した緑茶の色を栄口はどうにも好きになれず目をそらした。一枚の膜を通して、栄口の後ろから巣山の寝息が聞こえてくる感じだ。それが首元に張り付いているような気がしてなんども栄口はてのひらでうなじのあたりをさすり、なんでもないことに気づいてまたシャープペンを走らせた。英語の和訳がまだ一センテンス残っている。
 ふと教科書に影がさし、ぐっさんと呼びかけられた。長い長い文章がようやく読み終わろうとするところで中断されるのが悔しい。顔を上げると教室の出入り口の辺りを指さされ、その先に、まさに水谷のいるのが見えた。化学の便覧を貸してくれと頼まれる。ふざけんなよなーいつもいらねーッて言うのに今日に限っているって言うんだぜ、沖も泉も持ってねーッつうからホントお前だけが頼り。化学便覧を手にとりながら水谷は肺の中の空気を全ておしだすように一気にそこまで喋り、きゅっとくちびるの両端を持ち上げて、歯を見せた。なんとなくそれが掛け値なしに見せた笑顔ではないような気がして栄口は胸がざわつく。それを笑顔と言ってはいけないような気がする。ぐっさんって呼ばれてるんだ?化学便覧をぶらぶらと振り回し振り回し水谷は出入り口の鴨居に手をかけた。肘の辺りまでシャツを捲り上げた腕の血管がぐっと浮き上がり、青いのや緑の道筋が日に焼けた皮膚の下を通るのが見える。途端に血の味がした。なになに口さんってかなりの確率でぐっさんって呼ばれてる気がする。あー、山口とかな。山口はもう定番だよな。ぶっちゃけ山口さんだけじゃね?ひひひ。くちびるを横に引っ張り歯をのぞかせ水谷は笑顔のようなものを作る。そうして廊下の向こうを見、鴨居から手を離した。その手が栄口の肩を叩く。きりーつ、と日直の声がする。まだ、あの一センテンスを訳し終わっていない。

その手の振幅(050216)