球速百キロにも満たないようなひょろ球をそのバッターはいとも簡単に打ち返し、グランドにひかれた、ここを越えたらホームランという白線の向こうへと白球が抜けていった。いやな予感はしていた。慣れないキャッチャーミットを手にはめ、しゃがんだ目の高さからうかがうその男のフォームだとか、バットの持ち方だとかから察するに本気だというのがありありと感じられてうつになる。たかだか中学の球技大会で。
ホームランを打たれると守備側はなにもすることがない。本来の守備位置であれば、塁間を結ぶ線上より少し後ろでグラブを外しぼうと突っ立っている。次の打者の特徴をぼんやりと思い起こしては大体の守備位置を決める。そうしているうちに打者はダイヤモンドを回り終えてベンチに戻っているのだ。ところがキャッチャーというのはそうもいかないのだと栄口は思う。ホームを打者にあけわたすために、少し後ろにのいていなければならない、これは相当に苦痛だ。やけにその男がゆっくりとダイヤモンドを回るのが余計に苛立たしい。はねるようにしてホームベースを踏み、次の打者とハイタッチして戻っていく男の背中を見ながら栄口は左手にミットをはめ、右手の人差し指と小指を立てる。ツーアウトー。外野に伝令されていく。ツーアウトランナーなしからのホームランだった。まったく余計な一球だった。
次の打者をファーストフライに打ちとってスリーアウトチェンジ、ミットやマスクをとって一息ついていると、ピッチャーがごめんなと言ってくる。別にいーよ、同点になっただけだろ、そもそもたかだか球技大会だし。でもさ、栄口ってシニアで野球やってんだろ。いちおうな。みんなさ、ほとんどズブの素人じゃん?だからみんな悪いとは思ってんだよね。そう言うピッチャーの野球経験は小学校中学年まで部活動でやった程度。悪いとは思っているという言葉の意味をずっと考えていて、すぐに回ってきた打席ではすぐに追い込まれてしまう。あー、素人だから足引っ張ってごめんなとかそういう意味か?足引っ張るもなにもねーだろこんな球技大会で。栄口に勝つ気はあまりない。こういう行事に必要なのは、クラスの団結力と協調性を再確認することと、頑張ったという達成感だ。
ツーストライクワンボールからボールが後ろにそれた。ピッチャーが悪いというかっこうで手を立てる。その後方、腕組みをしてあの男が立っている。なんの因果かセカンドである。悔しいから右に打ってやろうとバットを短く持ち、腰辺りにきた打ちごろの球をはねかえすと、きれいにセカンドの頭上を越えてツーベースヒット。少しは気が晴れてセカンドベース上できょろきょろしているとあの男が寄ってくる。腕組みをしたまま。
お前野球部?じゃねーよな、ゼッケンつけてねーもんな。野球部員は色違いのゼッケン着用が義務づけられている。シニアでやってる。あーそうなんだ、知らなかった。俺は知ってたよ、お前アレだろ、戸田北のキャッチャーだろ、つーか守備位置つけよ。
鼻を鳴らせて阿部はベースから離れていく。エラーでもしろよと思いながらリードをとるが、光速で追い込まれた次の打者は真ん中の球をムチャ振りしてあえなくキャッチャーフライ。見せ場もなくチェンジになる。だがこのまま同点で引き分けで終わってもいいと思う。
試合はこのままずるずるいって七回裏ワンアウト、一対一で打者阿部。打つ気満々である。マスク越しに見る表情は凪そのものだが腕に力が入っていて、栄口はサヨナラ負けを思う。次の瞬間、まあ無難なところいっとこうとアウトコースに構えて、ボールがそれより中に入ってきて、目の前をバットが横切り、金属バット特有のあの音がした。ピッチャーが絶望の目で栄口を見てくる。しかたないという顔をして栄口はホームから退く。ゆっくりとダイヤモンドを走る阿部にクラスのやつらが追いすがってもう訳が判らない。だがよくよく見てみると、何本もの腕が阿部の体に伸びて服を脱がそうとするのを、本気で嫌がって逃げ回っている様子だ。とうとう塁間をそれた。早くホーム踏めよと思う。サヨナラ成立しねーじゃん。必死な顔で逃げ回る阿部の背に三人ぐらいの手がかかって白い体操着がまくれあがり、白い体のあちこちに青や赤やどす黒いのが散っているのがあらわになった。とうとう。
栄口ははっと息をのんでしまう。それは、そこにいた誰もがそうだった。鮮やかすぎた。歓声もとうにやんで、阿部の体の痣に声をなくしている。もう誰も阿部を追いかけていない。決まり悪そうに阿部は体操着をなおし、ホームベースを踏んだ。マスクを頭の上にあげて目を丸くしている栄口を阿部はじろりと睨んだかと思うと、なんか喋ったらぶっ殺すと言った。
かれの夕陽(050321)