ゴミ箱の中からひっぱり出してきた、埃と砂にまみれたゴミ袋をはさみで切り開いていると、巣山が部室の中からパイプ椅子をだしてくる。もう留め具に錆がういてしまっていて、背のところを持っても折りたたまれないのでかさばることこの上なかった。開けてもすぐ閉まってしまう部室の戸を苦労して右手で支えながら、巣山はパイプ椅子を外に蹴り飛ばした。ひどい音をたててコンクリートに転がり、水谷は肩をびくつかせた。休み時間でも始業前でも放課後でもない校舎をそっとうかがうが、クラブハウスの片隅で授業をサボっている二人の男子生徒のことなど、鉄筋コンクリートは頓着しない。
 半袖の開襟シャツを脱いで部室の横のもの干し竿にひっかけた。首元と二の腕に黒と白のさかい目ができている皮膚に汗を浮かせている。パイプ椅子に座った巣山に切り開いたゴミ袋をかぶせ、首の後ろを洗濯バサミでとめた。二ヶ月の間、汗や雨やその他湿気の消えることのない部室に放っておかれたはさみの具合を指の腹で確かめると、水谷は巣山の頭に左手をかけて右耳の上のあたりにはさみをいれた。ジャキンと音がしてゴミ袋に短い髪の毛が落ちていく。巣山の耳のひだにひっかかった髪の束を指でぬぐった。

 帽子をとると、頭の後ろ真ん中の辺りにくっきりとあとがついている。無造作に爪をたててかきまわしても、それだけでとれるわけもなかった。水谷はそんな巣山の後頭部を見ながら、伸びたな、と思う。
 次の日の朝、コンビニで早弁のあとに食べる食料を買い込むその手で散髪用のはさみを買った。昼休みにそのコンビニ袋の中の食料を食い尽くして、あとに残ったそのはさみを拳銃よろしくベルトに挟みこんだ。クラスメイトと馬鹿笑いしながら焼きそばパンを頬張っていた巣山は、水谷の来たことに気づくと焼きそばの切れ端を机の上に飛ばした。
 次の授業なに?日本史。じゃあ問題ねーな。なんの話だよ。机の上に落ちた焼きそばの切れ端を指先でつまむと口の中に放った。きたねーな。うるせーよなにしに来たんだ。お前の髪切りに来たんだよ。
 巣山は焼きそばパンの切れ端をどうにか口の中に押し込み、ペットボトルの中身で胃に流し込んだ。喉仏が痙攣するように動いた。呆気にとられた様子の巣山のクラスメイトに、それじゃ、こいつこれから腹壊して保健室行くからよろしく、この季節だから食中毒には気をつけないといけねーのに馬鹿だよな巣山って、そう伝えて腕をつかんだが言うことを聞かない。口をひくつかせて見上げてくるのをとぼけた顔で見返して、ベルトに挟んだはさみをとりだした。さっさとしねーとアレも切っちまうぞ。観念した様子の巣山の肩を水谷はぽんぽんと叩き、はさみをベルトにしまった。
 部室前のコンクリートにパイプ椅子を置き巣山を座らせる。黒いゴミ袋は熱が空気中に散っていくのを許さない。相当に蒸れるなか、巣山はなにも言わずに水谷のはさみの動くままにしている。ときおりのぞく頬の骨はぴくりとも動かず、巣山が無表情でいるのが知れた。照りつける陽のせいで、汗に濡れた髪が白っぽく光った。真新しい刃が鋭く陽を反射して水谷の網膜を焼いた。首筋にういた汗を髪にまみれた指先でぬぐうともっとひどいことになり、水谷は慌てて自分のシャツの裾をひっぱりあげて髪をぬぐいとった。あとはうなじの上のほうを少し切るだけだ。

 バカ谷捕るんじゃねえ、と巣山が叫んだのだけ、視覚以外の情報としてはっきりと覚えている。気のついたら三塁走者はホームに向かってつっこんでいた。呆然とホームの前にたたずむ阿部の様子、やがて走ってきた泉の肩の動く速さや、校舎の上で風にはためく旗、それからグラブの中のボールを、水谷は思い描いた。実感としては伴わないまま、映像として刻みつけられたそれらはあの試合が終わってもなおちりちりと焦がすように発熱し続けた。
 アウトカウントを間違えた、それだけだった。夏が終わってもまだ空の真ん中で勢力を緩めない陽が、帽子もおかまいなしに水谷の目をおかしくさせてしまったに違いない。灯る赤いランプは一つか、それとも二つか。
 風はセンター方向に強い。高く上がった打球は風にのって落下地点を惑わせた。相手チームもまた、危なげな捕球が続いた。裏を返せば、打ち上げてしまってもまだ望みは捨てきれないというゆらゆらとした試合だった。事実エラーは四回記録されている。エラーで出塁した走者は例外なく三塁まで進んだ。その中で生還したのは六回表、田島のタイムリーでの一人だけである。得点はそのエラーがらみの一点だけだったのを、終盤に追いつかれた。九回裏である。一アウト・ランナー一三塁だった。変化球を引っ掛けさせてショートゴロゲッツー、それが阿部の描いた青地図だったに違いない。練習試合で、延長はなしという取り決めだった。
 カウントツーナッシングからのアウトコース高めの見せ球だった。力任せに叩いた打球は三塁側ネットを越えるかと思われたが、センターに向かって吹く風がそれをおし戻した。ぎりぎりでファウルゾーンに落ちてくると目測した水谷は落下地点に走る。アウトがなにがなんでも欲しかった。それが三塁走者を頭の中から消した。アウトカウントを惑わせた。
 バカ谷捕るんじゃねえ。怒声は随分早くに水谷の耳に届いていたが、それが意味をなすのはグラブの中のボールの感触を味わってからだった。目線をあげると、帽子のひさしの向こう、冷えた目の巣山がいた。

 耳に刃先が触れ、危うく耳たぶを切るところだ。すばやく首を動かした巣山が、目を丸くさせて水谷を見上げてきた。ゴミ袋の下から腕を持ち上げ耳をさすった。その後ろ、少しだけ長い髪の毛を指先でつまみ、はさみを入れた。指にはりつく髪をシャツの腹のところでこすり落とした。
 はさみをベルトに挟み、両手で頭をこする。落ちきらなかった髪がぱらぱらと落ちる。いってー、目ん中入った。バカ、目ェつぶれ。後頭部をさすりながら、水谷はもう一度あの映像を思い浮かべた。最後にやってきた巣山のあの冷えた目は、まだ九月中旬だというのに水谷の腹を震わせるに十分だった。無言の重圧はそれ以上の鍛錬を水谷に強いた。内野だけでなく外野も失格となれば、もうこの道をたどる意味もない。
 巣山の頬骨が動く。水谷は腹の震えを抑えるのに苦労しながら、肺の底から息を押し出した。次、俺のも切ってくんね?やだよ、俺五分刈りしかできねーよ。それでいいよ。マジで?
 首の後ろの洗濯バサミをはずして、ゴミ袋をはたいた。最後まで張りついていた髪が白く光るコンクリートに影を落とした。パイプ椅子に座ったまま巣山が水谷を見上げてくるので、早くしろよ、終わっちまうだろと急かした。渋渋といったていで椅子をはなれるのを、水谷は目を細めて眺めながらシャツのボタンをはずした。ゴミ袋がかぶせられる。きつめに首元を絞めてくるのに息苦しくせわしい息をすると、少しだけ緩んだ。耳にはさみがあたった。すでにぬるんでいる。
 どうなっても知らねーからなと巣山が言った。もうどうかなっているのだ、それをどうにかするためなのだと水谷は思った。伏せた目に白く反射するコンクリートがまぶしい。ジャキジャキとはさみの入る音だけが空気を震わせ、水谷はとうとう目をつぶった。バカ谷捕るんじゃねえ。あのとき自分は、なにを聞いていただろうか。

散髪日和(050331)