鼻の奥からつつつと流れてくる気配を感じて花井はとっさに人差し指の第二関節を鼻に押し当てた。はなしたそこに、鈍く光る血を見て思わず鼻をすすった。それでも鼻の粘膜を濡らし続ける血の感触や、かなさび臭さはどうにもならない。床においた鞄からティッシュをとりだそうとかがんだそのとき、しまったと思ったときにはもう遅かった。コンクリートに赤い円が描かれたかと思うと次々に小さく点が散った。あーあーとつぶやきながら、鼻から流れつづける血をぬぐうのも億劫で、ティッシュを乱暴にとりだした花井はその一端をちぎって丸め、鼻の奥に押し込んだ。指で鼻の下やくちびるをこするとべったりと赤く染まり、指紋のみぞにはいりこんだその赤が花井の気力を萎えさせた。
 幼いころから鼻の粘膜は弱いほうで、今の膝ぐらいの背丈にも満たないころからなにかあっては鼻から血を流し、ティッシュをつめていた。おかげで多少の息苦しさはものともしないし、血の赤にも動揺しなくなった。寝ているときに鼻血が出ることもままあり、モノクロの世界で海におぼれている夢を見るときは決まってそうだ。塩辛さとかなさび臭さが強烈に脳みそに叩きつけられ、はっとして起きてみると、鼻から流れた血がまくらを汚している。モノクロなので判らないが、カラーであったならば、あの海は目が痛くなるほどの緑青ではなく不透明な赤をしているのだろうと花井は思う。
 かたわらで花井のノートを写していた巣山がパイプ椅子から立ちあがり、花井の手からティッシュをさらった。丁寧に一枚を三つに裂き、一つずつ丸めていくその指先を見ながら花井は鼻を軽く押さえた。俺さー、鼻血のときにティッシュを丸めんの好きなんだよね。手元に目を伏せ次々とティッシュを丸めていく巣山は、緩めた口から白い歯をのぞかせて笑った。花井の前に広げられた部誌のかたわらに、できあがったのが並んでいくのを花井は目を細めて見つめた。外に遊びに出ては鼻血を出して帰宅する花井を苦笑いで迎え、今の巣山と同じように、ティッシュを丸めるのは母親の仕事だった。寝転がると血を飲んでしまうのでいけないと、椅子に座り鼻頭をつまんでおくよう言われ、うつむいた目の先には母親の丸くて少し赤い指先がうつった。二つか三つをつめればもう止まってしまうのに、いつも多めに作っては血のついたちり紙と一緒にゴミ箱行きになってしまうのは、鼻血をよく出す息子が心配だからというよりそれが好きだったからなのだろうと思う。周りの子供よりもませていた花井は、母親に甘えるのを良しとしなかった。手のかかる子供にはなるまいと努めたのとは裏腹に、母親にはそれが寂しかったのだろう。そう努めていた花井も、そのときばかりは大人しく椅子に座り母親の作ったティッシュを鼻につめてじっとしていた。うつむいた頭の一番高いところあたりに漂う母親の柔らかな視線に、安堵しないわけではなかった。やはり子供だったのだ。
 真っ赤に染まったティッシュをずるりとひきだすと、巣山の作ったちり紙をまたつめた。もうほとんど血をすって重たくなっているのをどうしようかと右手を彷徨わせているうち、巣山がティッシュをもう一枚ひきだして二枚にたたんだ。
 妙に大人しくなっている花井がおかしいのか、横座りに頬杖をついた巣山は結んだ口角を緩めさせた。そうして、もうかえどきだと言うと、ちり紙を寄越してくる。……悪い。粘膜とか皮膚とか弱い?うん。……赤くなってる。巣山の指先が花井の耳の下あたりに少し触れた。吃驚して身をひいた、目の先で、巣山が目を丸くしている。間違いなく、過剰な反応だった。あごの下、田島がいつも噛みついてくるそこがうずいた。
 携帯電話が着信を告げた。尻ポケットに押し込んだ花井のそれは沈黙したままだ。巣山は携帯のフリップを開き、指先をすばやく動かすとパイプ椅子を蹴るようにして立ちあがった。友人との約束を忘れていたのだと言う。花井のノートを礼を言いながらつきかえし、慌しく部室から出て行った巣山の背中を見送って、花井は先ほどつめたティッシュをとりだした。途端、勢いよく流れ出した血が部誌の端を濡らし、赤く染まった。それをじっと見ているうち、今度は力なく宙にとどまった指先に、関節に、てのひらのしわに血が落ちてくる。花井はとうとう天を仰いだ。
 鼻血を出したときは上を向いてはいけない。血は鼻の奥から食道に入った。苦しくて口を開けると、どろりと乾きかけた血がくちびるの端を濡らした。巣山と呟いて、開きっぱなしの部室の戸を眺めた。無力だと思った。

赤はぜた(050424)