黒板消しのこと博多弁でなんて言うんだっけ。知るか。あー、ここまで来てるんだよここまで、なんだっけなー。日直の巣山の背中をクラスメイトの声が叩く。うっすらと黒く汚れた小指のつけ根をじっと見て、巣山は数学教師の板書のえげつなさを思う。今日は確かノートを六ページも使った。青黒いはずの黒板消しはみっしりと白い粉をのせて、息を吹きかけると白いもやが視界を埋めた。早いところ、この黒板を元のとおりにしてしまわなければいけない。次の授業、物理教師は黒板の様子で機嫌をころころと変えた。念入りに白墨をふき取った黒板を前にすれば彼の出す問題は比較的簡単なものになるだろう。授業中の愚痴も少なくなる。そうでないときは……、巣山はそうなったときのクラスメイトの非難を浴びるのが億劫でならない。しかしこの真っ白な黒板を前にして、巣山は、溜息しか出てこなかった。
水谷は風邪で休んでいる。今頃は、熱でうなされながらも、あの粗大ごみ置き場で拾ってきたとかいう少し古い型式のテレビで昼のバラエティ番組を見ているに違いない。そのテレビは床にじかに置かれていて、普段は時間がなくてすっかり電源を入れていない。洗濯もせず脱いですてられたTシャツやスウェットが山になり、埃をかぶってテレビの前を陣取っている。テレビの奥の壁には松井稼頭男のポスターが貼られている。わざわざ街のスポーツ用品店まで出向いて、ショーウィンドウに貼られてあったのを無理に頼み込んでもらってきた代物だ。前傾姿勢で左斜め前を見つめる松井の視線の先には、部屋で素振りをするためのバットが壁に立てかけられている。水谷は、寝ているあいだずっとボールを握って寝ている。硬球を使い始めて新しくできたまめがつぶれ、かたくなってその感触を変え始めたとき、不意に思いついたと言って篠岡に使いものにならないボールを一つ貰っていた。
ラーフル!ラーフルだ!へぇへぇへぇ。三へぇかよ!学ランの肩がすっかり白くなってしまった。こんな日に日直になってしまった己の運のなさを恨んだ。
水谷は試合でも三振をめったにしない。なんとかバットに当ててくる。当たった打球は二割の確率で守備の間をついた。巧くとらえたライナーでも野手の正面をつくことが多く、それが打率を悪くしている。八番を打つことが多い水谷には、後ろが三橋なだけに気負いもあるのだろう。
田島が毎晩、部屋で時間があれば素振りをしている、と聞いて、水谷は目を白黒させていた。才能にはそれに見合うだけの努力が不可欠だ。水谷が、気難しい顔をして俺もやるよと言いはじめたのはそれから程なくしてからのことだったように思う。
あのとき、巣山が水谷に殴りかかった、ちょうどそのとき、巣山の視界で篠岡は西広に牛乳を手渡していた。その瞬間びくりとはねあがった西広の手は牛乳パックを掴むことができず、篠岡の手を離れたパックはひどい音をさせて地面に落ちた。こぼれでた白い液体が西広のスパイクを汚した。
頬を殴られた水谷は目を真っ赤にさせて奥歯を噛んでいる。巣山はいからせていた肩をほどくと細く息を吐き出した。行きたきゃ行けよ、お前、やっぱ内野向いてないよ。
サッカー部行きゃよかったよ、いまどき野球なんてはやんねえし。軽い冗談のつもりでも周りにはそうは伝わらないいい例だった。巣山が肩を膨らませたのにいち早く気づいた花井が巣山に手を伸ばしたのと、巣山が水谷の胸ぐらを掴んだのはほとんど同時だった。
水谷がその場を逃げ出したのは当然の帰結だった。なぜなら誰も水谷のフォローをしなかったからだ。花井でさえ。白けたベンチの前、巣山の目は西広のスパイクをとらえていた。汚れてしまった、黒いスパイクだ。篠岡と二人で買いにいったのだというスパイクは、すでに牛乳で汚れる前に砂と埃と汗でくたくたになっていた。巣山はそれを見て、とても情けなくなった。
水谷ん家行くんだろ、俺も行くよ。花井とミーティングのあとの出入り口で一緒になった。鞄から取り出したマフラーをまくそばから詰襟の隙間をとおって冷たい空気が入り込む。水谷は、今頃見るテレビ番組もないので熱にうなされながら松井のポスターを見ている。そうでなければ、ボールをてのひらで転がしている。
あのときさ、お前がやらなかったら俺があいつ殴ってたよ。花井が鼻を赤くしている。吐く息が途方もなく白い。
晴れた日のこと(060402)