かき回されることのないプールの水は期待していたほど冷たくもなく、水面の温い液体がすねを這っていった。河合は膝の辺りまでたくしあげた制服がずり落ちないようにと、そればかりに気を配って横を見ていなかったので反応が遅れた。次の瞬間、無様に髪から肩が濡れた。島崎はしてやったりという表情で手を濡らしていたが、河合がなにも言わずきょとんと島崎を見上げているのに拍子抜けをしたのか、鼻白んだ様子で河合の横に座った。
遠く野球部グラウンドから金属バットの音がする気がした。勿論、一般校舎から離れたところにある野球部グラウンドの音がここまで届くはずはないのだが、この、いまだ翳ることを知らない陽の強さを目の前にして最初に想起されるのはそれだった。河合は足をプールの水に浸しコンクリのプールサイドに寝転がった。濡れた制服越しに背が焼けた。
お前、数学の課題やった?やってねー、つーか解けるわけねー。無理だよなー。だよな。プールサイドに突いた島崎の腕を下からのぞいていると、半袖の少し上の辺りにくっきりと陽に焼けたあとが見える。しかしそれと同じくらいくっきりと、制服の日焼けのあとがその下にあり、去年までなかったそのあとに河合は今更ながら動揺した。もうすぐ、上のユニフォーム焼けは消失してしまうのだろう。それは誰にでも等しくやってくるのだと思うにつれ、その消失に、つまり、消えつつあるそれがまだここにあるという事実に河合はたまらなくなって唸った。やめろよため息、幸せが逃げる。島崎が固い声で言った。
言ったあと、幸せってなんだ?と訊いてくるので河合は溜息をつく。島崎は肘を折り、河合に背を向ける形で寝転がった。薄いシャツにTシャツの背中のロゴが透けた。ほら、あれだよ、手のしわとしわを合わせるやつ。それってしわあわせじゃん。……ちょっと噛んだろ。うるせー黙れ。しかし幸せとは、今ここではバットを握れる状態であることだと思えた。ミットを手にはめてボールを受けることだと思えた。二本指をたてて伝令されていくツーアウトという言葉であると思えた。或いは島崎にとっては、青木や本山とこなす守備練習や、シートバッティングの声出しや、ティーバッティングであるのだろう。しかし幸せとは形をつかんだ時点でもうここにはないものだ。
河合はすでに固くなり皮膚と同化しているてのひらのマメにそっと触れ、その手を握り締めては開いてを繰り返した。やがて筋肉が疲弊して指がまっすぐに伸びきらなくなるまでそうしていた。島崎の肩が動く。動いた先に目を走らせると、上空、渡り廊下から本山が顔をのぞかせていた。お前ら、先生にチクんぞ!うるせーやれるもんならやってみろ!でけー声だすんじゃねーよ今から俺も行くから!チクるんじゃねーのかよとボソッと呟くと島崎の肩が小刻みに揺れた。
お前、数学のプリントやった?と島崎がもう一度言った。河合はやっぱり、やってねー、つーか解けるわけねー、と返した。額はもうすっかり乾いてしまっているのに浸した足が冷たい。
点の消失(060402)