バットの上っ面に当たったボールは次の瞬間跳ねるようにして上空へと伸びていった。河合はマスクを放り投げ落下地点を目測する。膝下につけられた防具がガシャガシャと音をたてスパイクが土を噛む。見上げたそこに白球が降りてくる。掴み取った白球をダイヤモンドに戻し、それが順繰りに回され最後にピッチャーへと戻っていく、その過程を河合はマスクを付け直しながら見守った。
次、ノーアウトランナー一塁。一塁のそばに控えていたランナーが慌てて立ち上がりベースを踏む。左のバッターボックスに入った打者がバットの真ん中の辺りを左手で支える。ファーストとサードがじりじりとホームににじり寄ってくる。外角低めに設定したはずのストレートはいくぶんか真ん中に集まり、バッターは難なくボールを転がした。しかし転がる方向と強さが甘く、マウンドを駆け下りてきたピッチャーがボールを処理する。セカンドにギリギリで間に合うだろう。セカンドにボールが送られる。併殺崩しのスライディングを避けながら放ったボールは大きく股を割ったファーストのミットに吸い込まれた。バッターランナー!監督の怒声がダイヤモンドに響き渡る。右打者だったら完全に併殺のタイミングだったが、左打者ならかろうじて二塁フォースアウトで免れたはずの場面だった。河合はボールがダイヤモンドを回っていくのを見ながら、横目でバッターランナーが外野に走っていくのを見つめた。シートバッティングでミスをした者にはその場で罰走外野十周が与えられる。
ツーアウト一、三塁。ランナーがそれぞれベースにつく。右打者がバッターボックスに入る。外角にカーブを設定。しかし緩く落ちてくる球を腰を泳がせながらバットに当ててきた。引っ掛けさせるという目的は果たせたものの、転がる方向が悪い。ピッチャーと、ポジションどりに誤ったショートの左を抜けた。一塁ランナーはスタートを切っている。サード!マスクを放り投げた視界に、マウンド横でひざまずいているピッチャーの姿が掠る。河合は軽く舌を打った。さっさとカバーに入れ。口には出さない代わりに鋭い声でカバーと叫ぶ。ようやく体勢を立て直した高瀬がくちびるを引き結んで立ち上がる。センターからサードに送られたボールの方がランナーよりも一つ早かったが、サードがボールをこぼしたためにセーフになった。
その日の罰走者は三人だった。
島崎がロッカーにもたれてグラブの手入れをしている。練習が終わった後のこの細かな作業を島崎は好んでいるようで、その引き結んだくちびるに河合は鼻歌を聞く。緩慢だったな。唐突に島崎が口を開いた。島崎は視線はグラブから外さないままだったが、河合はああと応えた。もう一人、部室に残っている本山は黙って島崎の横でスパイクの泥を削っている。それらの仕事を後輩にやらせる者もいたが、彼らは自分の道具を他人に触らせることをしない。
特にピッチャーがいけねえ、滑って転んでうずくまったままなんて邪魔にもほどがあるぜ。さっさと動けってな。本山が軽く頷くたびに、泥を削る手に力がこもった。あと送球ミスが多いな、拾いあげるこっちの身にもなってみろ。お前、随分股割りできるようになったもんなあ。グラブの紐の下を念入りに磨きながら島崎が肩を揺らせる。河合はぼつりぼつりと泥から浮上する泡をノートの欄外に書き込んでいく。見上げた柱にかかった時計はすでに十時を指している。奥の蛍光灯は明滅を繰り返した。白く光る蛍光灯には、目を凝らせば黒点が浮かんだ。河合は蛍光灯の交換、と書き込んだ。
あと、最近外野のやつらがハッスルしすぎ、カットできないような強い球投げんなよな。なあ和己、そう思うだろ?島崎の目が初めて河合を向く。しかしすぐに目は伏せられグラブに視線が注がれた。ノーカットの方が速いけどな。それより正確さだろ、速くたってノーコンじゃ使いもんになんねーよ。本山が今度は肩を揺らせた。お前、さっき俺が送球ミスが多いって言ったの覚えてる?なにアレ俺のこと?迅じゃねーの迅じゃ。まあ確かに今日のファンブルはいけねーよなあ。
島崎が手入れの終わったグラブに皮のめくれたボールを挟み込み、袋にしまう。本山はスパイクの砂をざっと落とした。河合はノートを鞄に押し込む。中途半端に開かれた扉から羽虫が入り込み、蛍光灯の周りを飛んでいる。温い空気がモルタルの床の上に停滞し、河合は息苦しさを覚えた。胡坐をかいた膝の裏に汗をかいている。和さー、お前今日ちょっとキレてたろ。キレてねーよ。やーアレはキレてたよなー。キレてねーって。言いながら河合が唇に笑みを浮かべると、本山は目を伏せて笑った。笑いは島崎に伝染し、しばらくの間部室にひそやかな笑い声がこもった。河合は目を閉じる。本山が立ち上がる気配がする。島崎が鞄を肩にかける。河合は胡坐をかいたままである。
和己、いつまでもキレてんじゃねーよ。キレてねーって。河合は笑いながら、高瀬の強張った顔を思い浮かべる。瞼を開けると本山が河合の鞄を手にしているのが目に入った。蛍光灯の灯りに網膜をさされながら、河合は漸く腰を上げた。羽虫が蛍光灯に身を焼かれている。
ドント・セイ・ノー(060402)