指定された喫茶店は表通りからワンブロック入ったところにあり、林立するビルの影がその窓に落ちている。頂点から少しずれたところにある陽は、それでも容赦なく高瀬のつむじを焼いた。店内は故意にか薄暗く、それまでコントラストの激しい世界にいた高瀬の瞳孔はきつく収縮した。しばらく、なにも見えなかった。
 島崎は奥の席から高瀬を見つけると大仰に手を振った。何十年ぶりか知れない。高校のときはなにを考えているのか判らない人だったのが、目尻に口元に皺をためて表情をあらわにした。ここのコーヒーはそんなにうまくねえけど、うるさくないのが助かるんだ。高瀬はおしぼりと冷やを持ってきた店員に島崎と同じくホットコーヒーを頼み、お久しぶりです、と言った。
 聞いてるぜ、河合のことだろ。島崎の右手に無造作に置かれたスポーツ新聞は高校野球の面を開いて折り畳まれている。関東屈指の強豪校が準々決勝を突破したという記事が一番大きく、次いで地方校の勝敗が白黒写真を添えて報じられていた。大学のことはお前のほうが詳しいだろ。いや、俺はもう全然。俺もあのときは実家帰ってきたときにたまに飲む程度だったからなあ。島崎は地方大学に進学後、企業に就職して野球を続けた。年齢を理由にクラブからは身を引き、通常業務をこなしていると聞く。
 でも、指導者には結構前からなりたがってたみたいだけどな、教職もちゃんととってたみたいだし。高瀬はコーヒーに口をつけたが酸味が強く、島崎の言うようにお世辞にもうまいとは言えなかった。ああ、そうだ、今の高校は大学の先輩の紹介だっつってたな、もともと先輩が監督してたところにコーチで入って、定年で退職するのを機に監督に繰り上がったって。今でも、連絡取り合ってるんですよね。たまにな、甲子園に行くのが決まったときも電話したぜ。一つ島崎は呼吸を置いた。
 あいつ、お前になんか言ったのか。
 あの夜のことを一度思い出してからは、場面の一つ一つ、細かい所作まで鮮明に描き出すことができるようになっていた。温度、湿度、それぐらいの明るさだったか、手についた土の柔らかさ、河合の息づかい、吐瀉物の饐えた臭い、全てだ。あのあと、河合はこう続けたのだった。でもな準太、ピッチャーにとってキャッチャーは一人じゃないはずだ。それは高校のときから、明文化はされずとも河合が態度で示し続けてきたことだった。受けるキャッチャーによって投球の調子の変わる、ムラのあるピッチャーにはなってくれるなと。それは高瀬が二年にあがったあの年から色濃くなる。
 頭では判っていた。つまり判っていなかったということだ。河合がホームにいないときでは腕が思うように振れない。河合に球を受けてもらうようになって、そんな風になってしまった自分に愕然とした。そしてその裏側で、河合もまたそうではないのかと問いかけるのが怖かった。疑うまでもなく答えは一つだった。河合にとっても自分は数あるピッチャーのうちの一人でしかない。
 俺と会うたびお前と連絡が取れないことをぼやいてた。そう島崎が告げた。高瀬はええ、と言ったきり口をつぐんだ。島崎が視線を窓の外に移す。白っぽく光るアスファルトから陽炎が立ち上った。日傘をさした女性が一人、視界を横切っていく。会わないのか、高速飛ばせば日帰りで行けるだろ。河合の高校は先日の試合で敗退していた。地元には既に戻っているだろう。三年生には最後の夏だが、一二年にはまだ秋が残っている。
 あの人は、俺の青春そのものでした、……もう取り返すことはできないものです。島崎は窓にやっていた目を高瀬に戻し、コーヒーをすすった。くっせえセリフだな、言って島崎は口元を緩めた。青春なんて言葉、久しぶりに聞いた。
 島崎は帰りしな、手帳の頁を一枚破ってなにか書き込むと、高瀬の方に滑らせた。そのまま伝票を持って立ち上がる。電話番号と住所だった。誰のものかは自ずと知れたが、高瀬はそれを受け取るべきか一瞬迷い、島崎を見上げた。行ってやれよ、積もる話もあるだろ。そこで一呼吸置き、島崎は窓の外へ目をやった。もう、何年経ったと思ってるんだ。
 島崎の顔に縦横無尽に走る皺がいっそう濃くなり、ふと、高瀬はこの人はここで泣いてしまうのではないだろうかと思った。高校時代、とっつきにくい先輩という認識でしかなかったこの男が、感情を露にしたのはあの試合後だけだと記憶している。うなだれた島崎は決して泣いているのを見せようとはしなかった。目の赤くなっているのだけ、覚えている。
 行ってやれよ。島崎はそれだけ言うとすっと背を向けて高瀬の視界から外れた。高瀬は口の中で礼を言い、メモをしまった。ぼんやりとした照明が目に入り、少しだけ明るくなったように高瀬は思った。

 休日、実家に電話を入れた高瀬はその日の朝のうちに出発した。甲子園は既に関西の有名校の優勝でその幕を閉じている。高瀬は整備された甲子園の芝がきらきらと光るのを、テレビを通して見守った。整列した球児達の足並みの、寸分違わず揃っているのを眩しく思った。
 グラブとか残ってるかな。電話口で母親はそれを聞き、少し黙り込んで勿論よと答えた。スパイクも、練習着だって残ってる。高瀬はそれを聞いて安心し、今日のうちにそっちに行くと伝えた。グラブとか、出しておいてくれるかな。母親は明るい声で請け負ったが、おそらくは高瀬の意図をつかめていない。
 高瀬先輩か。ステアリングを握り進行方向の信号を見つめる高瀬の耳の内に、いつかの後輩の声が響いた。喫茶店で再会した島崎は、昔からは想像できないほど人懐っこい表情をしていた。ブラウン管を通して見た河合は年相応になっていたが、グラウンドを見つめる視線はあの頃と変わらないように思えた。変わったことと言えば、そうだ、彼はもうホームベース後方に腰を下ろすことはない。彼の視線は常に俯瞰のものでこそすれ、マウンドに立つピッチャーに直接語りかけることはないのだろう。高瀬は、唐突に思い出した。
 あいつは、まっさらなマウンドに立って投げるということの意味をよく知っています。
 扉裏に棒立ちになって、高瀬はそこから動けない。クールダウンの終わった肩にはアイシングが施され、腹の辺りが浴びた水で光った。マメで固くなった右の手のひらにグラブを下げて、高瀬は目だけを寄越した。監督と河合がクラブハウスの横で話している。
 初回と二回に合わせて四点を取られ、その点差のままずるずると八回まできてしまった試合だった。八回、九回に桐青側が三点を返したものの、逆転はならなかった。このところ、練習試合では負けがこんでいる。負け試合は全て高瀬が初回か二回に点を取られていた。立ち上がりが不安定なのは自覚している。打線に甘えているわけではない。そう言い訳をする自分自身に嫌気がさしていた。結果、逆に腕が縮こまる。思うように振れない。
 プライドの高い投手ってのもやりにくいもんだ。ピッチャーってのは、そういうもんでしょう。
 パパッと後ろからクラクションを鳴らされた。前方、信号はすでに青だ。高瀬はアクセルを踏み込み車をスピードにのせた。クラクションを鳴らしただろう後方車が高瀬の車を追い越していく。
 見慣れた景色がいったん薄れ、実家に近づくにつれ郷愁が込み上げる。高校のものだろう、野球グラウンドを幾つか遠くに見た。夜間照明が昼間ではどこか居所なさげに佇んでいる。
 ステアリングを右にきり、高瀬は見慣れた実家の屋根を探した。

 河原の広場にダイヤモンドが作ってある。半ば錆び付いたバックネットにはトンボが三本立てかけられ、内野の土には筋がうねった。脇にグラブを挟み込んで堤防をぶらついていた高瀬は、思い立ち堤防を駆け下りた。革靴が蒸発しそびれた朝露に濡れた。乾いた草に腰を下ろし、ダイヤモンドを見下ろす。脇に挟んだグラブを手にはめ、中のボールを取り出した。高瀬でさえ忘れていた、卒業記念のボールだった。後輩達のメッセージが所狭しと並んでいるため、白い革の部分はほとんど覆われてしまっている。遠目では灰色のボールに見えるだろう。空に、垂直に投げた。
 実家に用意してあった品々は、母親によってきちんと管理されていたらしい。練習着など、当時は汗や泥に汚れて薄茶色のイメージしかなかったものは、真白に漂白され折り目をつけて保管してあった。ただ、グラブは手入れされずそのままボールを挟み込んで袋に入れたままにあった。編み込んだ革ひもが今にもちぎれそうになっている。貯め込んだ貯金に、両親からの援助をもらって買った代物である。確か、いつもつるんでいた三人で買いにいったと記憶していた。
 当たり前のことだが、スパイクや練習着の広げられたその一角に河合の影は微塵もなかった。最終学年になった高瀬らに後輩が贈ったものこそあれ、OBである河合から高瀬に贈るものなどなくて当然だ。それこそ、河合の手元にあってしかるべきものだった。
 高瀬はそれらを目にして、一つ深くため息をついた。高瀬の高校時代はあの人で埋められていると思っていたが、そんなことはない、彼はその一角を少しだけ占めるものでしかなかったのだ。例えば、このグラブのように。全て処分してしまおうと思っていた高瀬の意思は早々に萎えた。
 中学も入れると六年間。実際には四年間、何球、河合の構えるミットにボールを投げ込んだろう。河合がその心構えを教えてくれた。まっさらなマウンドは気持ちがいいだろう、だけどお前はその意味をよく考えなきゃいけない。少なくとも味方が点を入れるまでは最少失点に抑えること。味方が点を入れた次のイニングに点を取られないこと。守備のリズムを大切にするということ。
 河合は全て受け止めてくれたと思う。どんな暴投でも体を張って止めてくれたと思う。だが、最後のあのボールが高瀬に返ってくることはなかった。当たり前だ。相手のことを考えない身勝手な思いは、受け手と放し手の両方を傷つける。もう、返ってくるなと高瀬は念じた。
 グラブを空にめがけて開き、落ちてきたボールをつかんだ。わずかに鈍い音がした。目が太陽にくらんだ。確かに、和さんにとって俺はただのピッチャーの一人でしかなかったのかもしれないが、あんたは俺にとってかけがえのないキャッチャーだった。ある意味では不幸だったかもしれないが、高瀬はそれを悲観することは、今ではできなかった。もう一度ボールを投げた。受ける感触があまりにも生々しく感じられた。
 あの日、食堂の昼、テレビ越しに見た野球部の監督と、話をしたいと思った。真摯に、野球の話がしたいと思った。

わが手に夏を 3(060603) <2