狭い居酒屋の畳の上で尻をもぞもぞとやっていると、隣のやつが俺に少しだけ視線をやり、背を傾けて隙間を作った。片手を挙げてその隙間を通る。俺をこの合コンにひきこんだ友人が眉をひそめたが、ションベンだよ馬鹿、そう言って逃げた。女の子の悲鳴が少しだけ上がったのを背中で感じた。磨きたてられた木目のカーペットの上を靴下が滑る。俺はジーパンのポケットに入れた煙草を確認して居酒屋の外に出る。外出用のスリッパは使い込まれていて、中敷のつぶつぶがほとんど磨り減ってしまっている。金曜の夜の学生街はそこかしこで喧しい。飲み屋が立ち並ぶこの辺りは五六人のグループが先を競って酒を飲める場所を探している。店先で騒ぐのをさばくのもこの辺りの店の店員ならばお手の物で、向こうで酔っ払いの声が上がったかと思えばこっちでは店先でうずくまっている。
ライタの火が一瞬指先をあたためて、すぐに冷えた。パッケージにはあと三本残っているが、これから先どうやってこの合コンを抜け出そうかとそればかり考えている。そもそも身内で飲むだけと聞いていたのに、ビールは全然運ばれてこないわ、数分したら女の子が現れるわで俺はその時点で帰りたかった。言いだしっぺの友人はしれっとした顔でオーダーをまとめた。
こういうときに限って携帯はものを言わない。彼女は実家住まいでもう家に着いている頃だと思うのに、メールの一つも寄越さないでなにをしているのだろう。ここで連絡の一つでもあれば決心も大義名分もついてここから抜け出せるのだ。煙草はもう半分になっている。あの海にまた飛び込むかと思うと気が重い。彼女の顔をを頭から追い払っても、あの海に浮かぶ女の子たちには感興がそそられなかった。ひじき睫毛は嫌いなのだ。
ウッす。振り返ると俺の隣にいたやつがスリッパを引っ掛けて立っていた。坊主頭で、薄いラグランスリーブの下は割合いいガタイをしている男だった。学部は違うが食堂でよく見る。人ごみの中で頭一つだけ浮いている坊主頭は目立つ。ウッす、一本どう?あー……、なに?水色。じゃあ一本だけ。ひるがえったてのひらにつぶれたマメが見える。懐かしい痕跡だった。
巣山という男は最初の一息をえらく深く吸い込んで、長く長く吐き出した。すぼめたくちびるから白い煙が勢いよく吐き出されるのを俺はじっと見つめた。 も騙されたクチだろ。っつーかセッティングからして駄目だろ、こんな店じゃ。俺もそう思う、半分ぐらい帰りたがってた。だよな。
早々に立ち上がってジーパンの砂を払った。
水谷には仲のいい先輩がいて、その人と二遊間を組んでいた。俺たちの学年のひとつ上の代は人数が少なく、一年の秋から水谷と俺はそれぞれセカンドとセンターでレギュラーになっていた。その先輩はとかく守備がとても巧くて、捕れないだろうと誰でも思うような三遊間の深いところに転がったゴロにおいついて、グッと踏ん張り一塁に送球する。水谷など、初めてその先輩の実戦を見たときなど目を輝かせて、俺は絶対あの先輩と組みたいと興奮気味に繰り返した。俺も、それはそうだろうと思った。
巣山が、高校は西浦、とくちびるをすぼめて言うのを聞いて俺は真っ先にそのことを思い出した。違う高校に進学してから連絡をほとんどとっていないかつてのチームメイトだ。あの、なにより自分のポジションを愛したセカンドをだ。
水谷の名前を出したとき、巣山は細い目を見開いて次の瞬間咳き込んだ。あ、やっぱり知ってるんだ。知ってるもなにもチームメイトだったし。俺は巣山の坊主頭とガタイのよさに野球部出身だろうとアタリをつけていたので、水谷が高校でも野球を続けていたことを喜んだ。
コンビニの照明が後ろから降り注いで、車止めに座り込んだ俺たちの影を長くしている。手元の缶コーヒーはすでに温い。俺は薄いジャケットの前をかきあわせ、シャツ一枚で平気でミネラルウォーターを飲んでいる巣山に目をやる。俺の横にはおでんとレタリングされた旗が力なく垂れ下がった。
彼女からの連絡はコンビニに入るそのときに入っていて、立て続けにあの友人からのメールが続いた。同じように巣山の携帯もブルブルと震えだし、俺たちはコンビニの入り口付近でゲラゲラと声をあげて笑った。バイトの、耳にずらりとピアスをしているのににらまれて、また俺たちはヒヒと笑う。
一年の秋から二年の夏まで、水谷は野球をするのがひどく嬉しい様子で、他の部員たちにもいい影響を与えていた。時折空気の読めない発言をしてもすかさずあの先輩がつっこむといったふうで、水谷は額を押さえながらも嬉しそうだった。
だが先輩が引退して同級のショートと組み始めて水谷は目に見えて意欲を失っていった。原因は明らかで、それ故に周りをいらだたせた。お前、セカンドが好きなんじゃねーのかよ。俺はなんどかそう水谷に言い放ったが、その度水谷は自信をなくした様子で肩をすぼませた。相手のショートが特別下手な訳ではなく、ただ少しだけ性格は合わないように見えた。しかし水谷の様子はショートをいらだたせ、ついにはベクトルは反対方向を向いた。夏までは見せなかったイージーミスを繰り返す水谷はついにはレギュラー落ちの憂き目にあったが、しばらくしてレフトとして復帰した。いい気分転換になるだろうという監督の配慮だった。
甘いと俺は思う。しかしそれでも水谷は復調の兆しを見せ始めた。外野はいいな、グラウンドってこんなに広かったんだな。そう水谷はよく言った。その守備範囲に戸惑いを見せながらも水谷は順応していった。しかし時折焦がれたような目をして内野を、いやショートを見ているので俺はひどくやるせなかった。そんな水谷にイラつきを感じていたが、フェンスに体当たりをしながらフライを捕り、にっと笑う水谷を憎めなかった。俺たちはどういう形であれ野球を愛していた。
巣山は二本目の煙草に火をつけながら、俺ショートあいつレフトと言った。セカンドじゃなくて?やりたそうだったけど、シニア出のうまいやつがいたからなー、まあ基本ポジションは複数できるようにって方針だったから内野も練習してたぜ。ふうん。普段おちゃらけてるのがやけに真剣に練習するもんだから、なんかあるのかと思ったな。巣山は灰を俺の飲み干した缶に落とす。俺は空になったパッケージをいじくっている。
お前は今も野球やってんの?いや、野球はやってないなー、ソフトボール。ショート?いや、キャッチャー、お前は?俺は高校から卓球だよ、ところであいつ今どこに行ってんの?どこだったかな、どっか地方行ったんじゃなかったかな。連絡してみるか。七のボタンを長押しして表示される名前の列から水谷の名前を拾いあげ、通話ボタンを押した。息を殺して待つ俺の耳に流れこんできたのはあの男の声ではなく、留守番電話サービスにつなげますかというアナウンスメントだった。隣でその様子を見ていた巣山が、自分の携帯電話を取り出して、俺もやってみようかと言う。
いや、止めとこう。俺は一回盗塁を失敗したらその試合は全然駄目なタイプなのだ。それを言うと、巣山は声をあげて笑った。俺は空になった煙草のパッケージをいじりながら、あのセカンド兼レフトのことを思い出している。彼の三年間は、あの先どうあっただろうか。巣山がおでんでも食べるかというので俺は立ち上がった。コンビニの灯りがとても目に眩しい。
オン・ザ・ライン(070204)