悪い、と言いさして阿部はブルペンから出ていった。沖は、なだらかに向こうにいくにつれ傾斜している地面をゆっくりとなぞっていき、キャッチャーミットの不在を思い知る。左手に握ったボールを二三度グラブに叩きつけ、練習着のポケットに押しこんだ。フェンスにかけたタオルを掴む。顎の裏とこめかみの汗をぬぐい、デコボコとしたマウンドまで戻る。先程まで座っていた阿部の姿かたちを思い浮かべ、ゆっくりと振りかぶった。噛みしめた歯の隙間から息が勢いよく吹きだす。しなる腕からボールは放たれないが、沖は見えぬボールが、見えぬキャッチャーミットに座りよくおさまる様子を想像する。握りを変えたつもりでもう一度。左手につかんだタオルが勢いよく振り下ろされる。
そうやってシャドウピッチングをしていると、グラウンドから巣山が駆け寄ってきて沖に声をかけた。阿部に頼まれたのだと言う。悪い。沖はタオルを元の通りにフェンスにひっかけ、マウンドに戻る。先程まで阿部が座っていたそこに、グラブを横にした巣山が座っている。軽く流すように幾度かストレートを投げこんで、巣山のグラブがいい音をさせているのに沖は気を良くした。今日は夜半から雨だ。空は灰色の雲で覆われている。もう随分と過ごしやすくなったとはいえ、体を動かしていればこめかみから汗が伝う。しかし空気が含んだわずかな湿気が心地よかった。ボールに指がうまく引っかかっている。防具をつけていない相手には本気で投げこめないが、巣山は腰を下ろしたまま阿部の真似をしてスライダーを要求する。馬鹿、怪我したらどうすんだ。山なりのボールを投げながらそう寄越すと、大丈夫だよバッターいねえし、そう返してくる。……俺がやなの。
グラウンドから、田島がマシン相手にバットを振る音が聞こえてくる。高く澄んだ音だ。田島の叫ぶ方向に向かって、どこまでも伸びる。シートバッティングで田島に向かって投げこむときに感じる、あの静かな気迫を沖は思い出す。……うお、すっげぇ落ちた!
あれは、初夏に覚えたカーブを試したときの田島の反応だった。変化球はスライダーしか知らなかった沖に、監督と阿部が緩急をつけるためにもと打診したのだ。間接の柔らかい沖の腕にカーブはすぐに馴染んだ。ストンと、打者の手前で落ちる。ただそれは一等調子がいいときのはなしだ。まだまだコントロールが完璧とは言い難い。すっぽぬけて阿部の頭上を越していくときもあった。
なあ、投げろって。巣山が今度はカーブを要求する。……だから、お前防具付けてねえじゃん、それともあれか?俺の球は当たっても痛くねえってか。三橋のよりは速いストレートを巣山のグラブに向かって投げた。バシィっと、小気味いい音が響いた。ボールを投げようとする巣山を制し、マウンドを降りる。フェンスにかけたタオルを手にしな、腰を落としたままの巣山のもとへ歩み寄った。フェンスを背に二人して座りこむ。グラウンドではマシン相手のヒッティング練習が行われている。ライナーで飛んでいくボール、地面をスーッと滑っていくゴロ。
阿部、どれぐらいで戻ってくるって?さあ、花井と栄口も一緒に行っちまったからなあ。ふうん。ボールをグラブに叩きつけながら沖は相槌を打つ。監督に呼ばれてブルペンを出ていった阿部の背中の、皺の寄った練習着を思い出す。
俺、ショートやりたかったんだ。
あれはいつだったろうか。夏の終わり、阿部がようやく復帰し始めたころだった。二人してボールを磨いていたときに、不意にやってきた沈黙に耐えきれず沖はそう呟いた。阿部はそのとき、三白眼をめいっぱい見開いて声を失っていた。笑い話になると思っていた沖の予想は無様に外れ、いっとき気まずい空気がベンチ前を支配した。……どういうこと。そのときの、阿部の声の低さったらなかった。
冷静に考えれば判ることだ。まだ野球のルールなんてボールを打って走ってホームに帰ってくる、それぐらいしか知らなかったこどもの頃の話である。両親に連れられてよく神宮に通った沖は、その球場が本拠地球団の、ショートの選手のファンだった。ピッチャーの足元を、センターに抜けようかというアタ
リを難なく捕球し、ぐっと踏ん張って一塁に送球する、その球筋の正確さと動作の速さ。しかし左利きを去勢することなく、鉛筆も箸も左手で持つことに慣れてしまったころになって初めて、その夢が噴飯ものの妄想だということに気づいたわけだ。沖の居場所は、一塁か外野かマウンドの上にしかなかった。
え、マジで?片眉を下げて巣山が笑う。ああ、これが正しい反応だ、と沖は思う。だからガキの頃の話だって言ってるだろ。地べたに座りこんだまま腕を振る。沖の視界の中でボールははるか遠くまで飛んでいく。まぶたを一度閉じ、ボールを消し、グラブの中でカーブの握りを確かめる。肘をひねり、ストンと落ちるイメージで投げる。緩やかに弧を描くボール。そのはるか上、空気を裂くバット。このカーブで初めて打者をアウトにできたとき、そのときになったら俺は変われるだろうか。……お前それ阿部に言った?言ったらマジな顔された。だろうな。冗談が通じねえんだもん。だろうなあ。スパイクにこびりつい
た土を指先ではがしながら、巣山はもう一度息を吐くように笑った。
あんまさ、阿部いじってやるなよ、いっぱいいっぱいなんだよあいつも。……俺も結構いっぱいいっぱいだけどな。グラウンドの向こうで、水谷が巣山を呼んでいる。ノックが始まる。巣山は尻についた土を払い立ち上がると、グラブを左手にはめた。ブルペンを出ていく巣山と入れ違いに、阿部が戻ってくる。防具をつけ、マスクを下ろした阿部は先程まで巣山が座っていた向こうに腰を落ち着ける。沖はマウンドに再び立ち、グラブの中でカーブの握りを確かめる。
やっぱピッチャーやりたくないか。あのときの阿部の、苦虫を噛み潰したような顔ったらなかった。沖は自分が地雷を踏んだことを改めて認識し、そういうことじゃないと弁解した。確かに三橋のようにマウンドに一試合通して立てる度胸も集中力もテクニックも、沖にはない。だがチーム事情も含めて沖は自分がどうすべきかは判っているつもりだった。このチームで、甲子園に行くのだ。やりたいとかやりたくないとか、そういう問題ではないことを重々沖は承知している。その上であの発言を沖は後悔した。冗談でも言うべきではなかった。
ワインドアップから腕を振る。手首をひねる。緩いボールはストンと阿部の手前で落ちて、低く構えた阿部のミットに収まる。バシィッという小気味いい音。……ナイスボール!空気を裂いて、沖のグラブにもう一度ボールが寄越される。……カーブ、もう使えるな。座りしな、阿部がそう沖に言った。マスク
の下で阿部がにやりと笑うのを、沖は少しくすぐったい気持ちで見つめた。
カーブ、左手(080828)