夏が近づくと空気のにおいに敏感になる。部活終わりにベンチの前に置いた鞄の上に練習着を上だけ脱ぎ捨てて水飲み場に走るとき、腹にびっしりとはえていた汗の粒が骨や筋を伝わって下のほうへ流れていくのを、短く刈り込んだ髪の毛の先に水の球がキラキラと光るのを放心したように見つめていると、どこからかあのにおいがしてくる。爽やかなものだなんて、とんでもない、生き物の繁殖する饐えたぎらぎらしたあの空気が背中の辺りにどんよりとのしかかって前のめりにさせる。夏というのは物心つく前からそういうにおいのする時期だった。温度が上がれば生物活動は活発になることは誰でも知っている。だから、それでもあのにおいは歓迎するべきものだと思っていたが、今ではそうでもないことに気づいてしまっていた。全てにおいて至適温度というものは存在する。
 最初の頃は部活が終わると野球部グラウンドから百メートル向こうにあるクラブハウスまで走っていってそこで着替えていたけど、もうそんな面倒くさいことはしない。授業が終われば直でグラウンドに来て、ベンチの前に荷物を置いてそこで着替える。気温のせいもあると思う。あの気密性の高いモルタルの部屋にこもりたくないのだ。あのにおいはそこかしこで背中にのしかかろうとするのを虎視眈々と狙っている。
 雨の上がったあと、すぐに顔を出した太陽の熱でグラウンドは蒸し風呂だった。表面だけ乾いた土を踏むと、少しだけ柔らかくめり込む感触がする。ぎょっとしてスパイクを見ると、踏み込んだ土の下のほうからじわじわと水が浮いてきていた。泥のとけた茶色い水だ。見なかったことにして百枝の元へ巣山は走る。
 遠く、水谷が繰り出したボールは大きく弧を描いたかと思うと手前でくっと右に曲がった。慌ててグラブをつきだしやっとのことで捕球した。お!今のスライダー花井のより使えんじゃね?隣でキャッチボールをしている花井から罵声が飛んだ。巣山はグラブからボールをつかみだし、少し前進してから空に向かって投げた。きつい傾斜でボールが落ちてくる。ちゃんと捕れよ、レフトフライ!うるせー!水谷のスライダー回転の球はなにも今始まったことではない。流石に試合やノックのときはやらないが、こういうアップのときのキャッチボールでは珍しいことではなかった。しかもきちんと曲がるものだから始末が悪い。
 難なく捕球した水谷が走り寄ってくる。お前さっきなんて言った?なに?スライダー投げる前。あー、別になにも。はあ?いや、だから別にどうでもいいことだって、矢口はいつ卒業するんだろうとか、そういうことだよ、流せよ。流せよというわりに水谷の目はすがるふうなので巣山は困ってしまう。

 高校の近くにラーメン屋は二軒、チャーシュー麺の値段は僅差、ギョーザの餡は肉の多いのとキャベツの方が多いのと。花井と水谷と相談して、チャーシュー麺は少し高いがギョーザの肉の多いほうに行こうと決める。バッティングセンターと裏で面していて、その帰りに寄っていくときもあった。ラーメン屋に行こうと言うと真っ先に飛びついてくる田島の姿は今日はない。三人でたらたらと泥の体を酷使してラーメン屋に自転車を走らせていると、その方向にある繁華街のネオンが空を明るくしていて、その周りの暗さにぎょっとすることがある。自転車を走らせているとペダルがやけに重い、足がついていかないのかとげんなりしているとふと前の路が照らされていることに気づく。前輪の摩擦音が耳の奥でずっと鳴っている。
 やっぱさーチャリ乗ってると負荷ってもんを考えるよな、三段変則の一番軽いやつに切り替えるとなにこれ!ッて思うもん。あー判るそれ。空回りしてるもんな。だべ?全然進まねーの。有酸素運動には一番軽いやつがいいっていうけどなー。あーそうなん?姉ちゃんがこないだダイエットの番組見ててさ、脂肪を燃焼させるためには軽い運動を長時間やるのが正解なんだって、重いやつだと筋肉がついちまうんだって。いやいやいやいや、俺ら肉つけねーと。
「あ、田島だ」
 花井の肩がびくりと揺れるのが夜目にも判る。唐突に発せられた水谷の声に緊張感もなにもない。その抜けた空気と花井の肩の力が滑稽だと巣山は思った。立て続けにブレーキがかかる。目の先にバッティングセンターの自転車置き場がある。街灯の立っているそのあたりの区画だけが目の覚めるような明るさで、瞳孔の閉まるときのかすかな違和感が巣山の目の奥を襲う。確かに、文字通り乗り捨てられたあの自転車は田島のものだ。でこぼこの泥除けに貼ってある校章ステッカーや、取り替えたばかりだと言うスタンドの眩しさに見覚えがあった。
 バッティング好きだよな、とぼそりと花井がこぼした。一度止まった自転車を、もう一度スピードにのせるのが億劫でそのまま自転車を降りてバッティングセンターの置き場に寄せた。ラーメン屋の駐車場は狭い。ちょっと覗いてくという水谷を置いてラーメン屋に入る。厨房の熱気がガラス戸を熱くしている。すかさずお冷やを持ってくる店員にチャーシュー麺二つとギョーザ二つを頼む。花井は入り口のあたりにひっかけられているスポーツ新聞を広げて昨日のプロ野球の試合結果を見ている。対角線の向こうのテレビではもうすでに試合中継を終えてニュースに入っていた。巣山はお冷を一口飲んだ。そこに水谷が入ってくる。荷物をどさりとコンクリートの上に置いて、椅子にへたり込んだ。マジで田島だったんだけどさー、あ、ラーメンとチャーハン。一気にお冷やを飲み干す。飲みたそうにしていたので花井の分のコップを水谷に押しやると、花井が新聞からはっと顔をあげて水谷を睨んだ。飲まねーって、で、田島だったんだけどさ、キャッチの練習してた。
 花井の顔が険しくなる。眉根を寄せたまままたスポーツ新聞に目を通し始める。俺見たことなかったからびびったよ、打球音がしないからなんでかなと思ったんだ。いや、でもよく見るよ、バッセンでキャッチの練習って。あーそういうもんなんだ、近くによって見たわけじゃねーけど、流石だよな、キャッチング音とかさまになってきたもんな。
 花井が新聞を片付けたそのスペースにチャーシュー麺が重い音をたてて置かれた。花井の背中にのしかかろうとしているそれを巣山は恐ろしく思う。なんのコメントもなくラーメンをすすり始める花井を巣山はしばらく見ていたが、水谷の指が巣山のチャーシューを横取りしようとするのをさっとよけて、箸を割った。横で水谷がテーブルに顎をのせて花井が器用に小さくたたんだスポーツ新聞を読んでいる。
 あーやっぱ俺もチャーシュー麺頼めばよかった。そうして、スポーツ新聞をぱたりと伏せて、あーやっぱもっとちゃんとセカンド練習しておけばよかった、とこぼした。

走れ走れ走れ(050217)