キィン、と金属バットがボールを叩く音がする。それまで聞こえていた、多重音の掛け声や土を蹴る音を切り開いていくように遠くへ伸びてそして消える。河合は努めてそちらに意識がいかないように、窓際の席はあえて選ばずに中央の席に腰かけていた。放課後の図書室は深海のように静かだ。古い紙のにおいとともに、本棚の影でささやかれる小さな声が穏やかに河合を包む。手元のノートには河合の濃い筆跡で数式がちりばめられていた。問三、とシャープペンシルがなぞり、x軸とy軸が左上に描かれる。座標を簡単にとり、平面にあたりをつける。ぐるりと描かれる円。中心から軸に下ろされる点線と、円に接する直線を一気に引いた。勢いよく引くつもりだったのが、腕が隣の席の背もたれに引っかかってしまったせいで少しだけ歪んでしまう。河合はその横に直線の式を書き入れ、一つ瞬きをした。
 河合の夏が終わって既に十日が終わろうとしていた。引き継ぎもすでに済み、河合の生活から部活の二文字が消えようとしている。中学時代から数えて五年と少し、授業が終われば競うようにして部室に駆けこんでいたのに、今ではそうすることもできない。そんな宙ぶらりんな気持ちのまま、河合は居場所を図書室に決めた。冷房の効きすぎない図書室には河合のようにどこかからあぶれた生徒がぽつりぽつりと浮島のように机に腰掛けている。誰がなにをしようと干渉しあわないその様子が今の河合には好ましく思え、それからはここで数学や英語のテキストを開くことにした。……本山や島崎には、河合がここにいることは知られていない。
 明かす必要もないように思えた。島崎などに伝われば、あの男は率先して河合の自習の邪魔をするだろうし、同じように手持無沙汰の連中が押し掛けてこないとも限らなかった。彼らのことを悪く言うつもりはない。ただ、そうすればこの深海のような穏やかな空気は一瞬にして消え失せてしまうだろうと河合は確信していたので、授業が終われば手早く荷物をまとめて図書室への廊下を辿った。夏の陽にあぶられたコンクリートは、上履きをはいた河合の足裏をじわじわと焼いた。
 シャッシャッとシャープペンシルを走らせながら、河合は進路のことを考えている。セレクションの日程なども調べてはいるが、それもまだもう少し先になってからのことだ。監督はいくつかあてがあるとは言ってはくれているものの、予選一回戦敗退校の選手を率先してとる大学などないだろう。そこまで考えて、予選一回戦敗退の文字がゆっくりともう一度河合の脳裏を横切っていく。そうして、自分がこうして図書室で自習しているのも、こそこそと知り合いから隠れるようにしているのも、あれからボールもグラブも触っていないのも、もう野球から離れてしまいたいと考えているからなのだと気づかされる。幾度も幾度も行きついたその答えがまた瞼の裏にひらめいたとき、河合はその考えを誰にも気づかれないように腹の底に大事にしまった。捨てる気にはならなかった。
 下校時間が近づいてきている。スピーカからユーモレスクが流れ出す。学校生活の中で一度もゆっくりと聞いたことがなかったこの音楽を背中に背負うとき、河合は少しだけ瞼を伏せる。夕陽の射しこむ校内は、今まで見たこともなかった顔を見せる。そういうとき、ああここも駄目なのかと少しだけ泣きたくなる。かといって今まで河合の居場所だったあの場所に戻れるはずもなかった。
 ふと、左耳のあたりに強い視線を感じる。振り向いてからしまったと思った。教室の中からあの男の視線がぶすぶすと河合の心臓を射抜いた。赤に染まった教室の中には島崎の他に何人かの人影があり、それまで楽しそうに声をあげていたのが、島崎がぐっと黙りこんで河合を睨みつけているのに、すっと空気が冷めてしまったふうであった。逆光で誰が誰かも判然としないのにその視線の持主だけがはっきりとしている。島崎は、河合が硬直したままなのでゆっくりと机に腰掛けていた足をおろした。和己、と呼びかけるのも忘れなかった。
 島崎が一歩を踏み出すのと合わせて河合は今来た方向に逃げだした。待てコラ、と島崎が叫ぶ。肩にかけた鞄の中に入った重いテキストが、体を揺らせるのに合わせて河合の背中を重く打つ。たかだか十日だ。十日体を動かしていなかったせいでこんなにも鈍重になれるものかと河合は愕然とする。と同時に、このままあの深海に身を潜めてさえいれば嫌が応にもそういう結末を迎えざるを得ないのではないかという邪な思いが河合の胸をますますどす黒くしていった。その黒い胸が拍車をかけて河合の足を重たくしていく。階段を二段飛ばしで駆け下りる。すぐそばに島崎の息遣いさえ聞こえてきそうだった。なにかを叫んでいるが河合の耳には入ってこない。入れることを脳が拒絶した。上履きのまま渡り廊下から外に出る。キィンという、金属バットがボールをたたく音が目前でする。河合はとうとう足を止めてしまい、膝に手をついた。鞄が腕からずり落ちて地面に落ちてしまう。閉じていなかったそこから、テキストとノートがこぼれでた。
 その腕が強引に引っ張られた。体勢を立て直す間もなく、島崎は河合をずるずると引きずっていく。渡り廊下のどん詰まりの、自販機が緩く発光しているあたりに河合を突き飛ばした。
 逃げるってことは。荒い息の合間、声はひび割れて無残だった。逃げるってことは、なんか後ろめたいことでもあるのかよ。冷たいコンクリートに頬をつけて、河合はじっと目を閉じた。夏の夕暮れの、乾いた空気がくちびるを乾かしていく。うっすらと汗の滲んだ腕を眼球に押し当てた。耳元で心臓がひどい音をたてている。お前が、追いかけてくるからだよ。ようやく呟いたその言葉に島崎は鼻を鳴らして、河合の鞄を爪先で小突く。よく言うよ。腕をずらして島崎を見上げると、彼はちっとも河合を睨みつけてなどおらず、その冷たい視線は河合の鞄に向けられていた。いや、鞄からのぞく数学や英語のテキストだ。そうして、島崎がすべて承知でこうして河合を問い詰めているのだと思い当たり、河合はひどく冷めたこころもちになった。脇の下や首筋や背中にかいていた汗がすっと冷えていき、じわじわとコンクリートから這い寄る冷気が河合の体を冷たくしていく。もう何年の付き合いだというのだ。河合は島崎を完全にみくびっていたのだ。いや、むしろ、島崎にだけは知られたくなかったというのが正解に近い。この、誰よりも野球を愛する男にだけは、それを捨てようとしている自分を見られたくなかった。淡い期待である。絶望を思って河合は固く目をつぶった。こめかみを一筋汗が流れていった。
 呪ってやる。一言島崎はそう言った。まさしく河合の思い描いた言葉であった。お前が野球を辞めたりなんかしたら、俺は一生お前を呪ってやる。低く這いずるようなその声は河合が聞いたことのないものだった。それきり、島崎の離れていく足音を聞きながら、ああ、もう終わりだと河合は思った。島崎はもう一生河合を許してはくれないのだ。絶望を思いながら河合はため息をつく。島崎から絶縁状を叩きつけられても、こうして腹の底が冷えるような思いを味わってもなお野球を続けたいとは思えなくなっている自分には、もう野球をやる資格なんてないのだろう。遠くでバットがボールをたたくあの音がしているが、河合の耳にはもう遠いものになってしまった。自販機の影に隠れるようにしてしばらくうずくまっていた。

 あれから、島崎とは口もきいていないし顔も合わせていない。島崎が河合を避けているのではなく河合が島崎を遠ざけている。逆に、島崎などはわざわざ河合が自習している斜め後ろの席に座ってくる。なにをしているかなど河合には判らない。河合はずっと自分の手元を見つめている。ただ斜め後ろからの視線はあのときと同じように河合の背中に致命傷を負わせた。
 スピーカからユーモレスクが流れ出す。河合と同じように机に座って本を読んでいる生徒、自習している生徒が次々と手荷物をまとめて席を立っていく。河合も机に広げていたテキストとノートを片づけて鞄を肩にかける。同じように斜め後ろからも椅子を引く音がする。出入り口に向かおうとする河合をすっと追い越して、島崎は先に図書室を出ていく。本意ではないが島崎の後ろをついていくかっこうになる。島崎は河合がその後ろについてくるのを当然とでも思っているのか、背筋をしゃんとさせて、長い脚を大股にしてずんずんと歩く。河合は、島崎のそのシャツからのぞくうなじがそれほど日焼けしていないことにひどく動揺を覚える。去年までは島崎も河合も、それこそ真っ黒になるまで皮膚を焼いていたように思う。それが今年はどうしたことだろう。河合はそう思った途端、ひどい虚脱感に襲われて足を止めてしまった。
 おい慎吾。
 思えば久しぶりに名前を呼んだように思う。島崎は横顔だけで振り返ってみせた。廊下側の窓から射しこむ陽が影を作っている。陰影ははっきりとしているのに島崎の顔にはそういうものがない。河合は恐ろしい気持ちになる。お前こそ、どうするんだ。今の今までその考えを思いつかなかった自分を河合は恥じた。自分の身の振り方ばかり気になって、島崎や本山や、他のがどうするかなんて考えたこともなかった。島崎は河合がひどく恐ろしいものを見るようにしているので、顔の半分だけで笑い、前に向き直った。顔を伏せる。島崎の首がぐんと伸びて、首の骨の凹凸がはっきりと判る。自惚れるなよ。島崎は漸くそう言った。どこかの誰かさんじゃあるまいし、お前が野球を辞めるからって。
 キィン、という音がした。島崎は驚いたように肩をわななかせ、また足を動かし始める。しっかりとした足取りである。廊下のずっと向こうの、薄暗くなっているところで島崎の白い背中は消えてしまう。かわりに、それまで音声のなかった河合の世界に再び喧騒が訪れる。河合は時計を見た。五時を少し回っている。……今日から予備校に通うことになっている。

あの日の夕方(081121)