単純作業の合間にそれはやってくる。こめかみの辺りがひりひりとするときはいつだってそうだ。幼いときから空気を読むことだけは長けていたので、風呂桶いっぱいの水に墨が一滴入り込んでも敏感に反応できた。栄口は折っていた首を左右に鳴らし、目の前で同じくボールを磨いている巣山を見る。気づかれないように一瞬で目を下に落とした。足元の籠からつかみだしたボールはすでに縫い目がはじけとんで皮がべろりとむけてしまっている。それがやってきたのはまさにその向こうからだという気がして栄口はまたこめかみがひくつくのを感じる。髪から汗が一筋、緩く弧を描いて首元を流れた。皮が、と巣山が言った。
 皮がむけてんのはよけといてくれって、篠岡が。立ち上がり、向こうから一つ籠を寄越してくる。栄口は一通り磨いたそれを籠の中に放った。薄く汚れた皮の裂け目がぐるりと回ったかと思うと栄口に口を開けた。ぴったりとアンダーシャツが張り付いているはずの背中に空気の通る感触がして背骨をよじらせた。
 ボール磨きの当番は二人一組で順番にまわってくる。ダウンの終わったあとに全員で外野に飛んだボールを集めて数をそろえた。そろわなければ見つかるまで土の上をはいつくばる。ボール磨きはそのあとなので、不運であれば帰宅時間はかなり遅くなった。幸いにも今日は、ボール集めに大層な時間はかかっていない。それでも部室の十分遅れの時計は十時をさした。栄口は反復作業は嫌いではない。思考が介在しなくともよいのであれば作業は単純であればあるほど好ましいと思えた。時間の感覚さえ働かなくなる。自然、二人で行う作業でも口数は少なくなった。秒針の音の合間にはボールを磨く音だけがつまっていく。

 最後のボールを互いに磨き終わって深く息をついた。籠を出入り口の近くに寄せ、巣山は鞄のジッパーを閉めてしまう。着替えねーの?あー、もう帰って風呂入って寝るだけだから。すっかり汗が染みて色が濃くなっていたアンダーシャツはもう乾いてしまっていて、巣山の背中をまばらにした。ぐっさんさー、明日の英語の宿題やった?
 すばやくシャツのボタンをとめていく。右から左へと通り抜けていった巣山の言葉を手繰る間、生返事を返した。パイプ椅子を引く音がする。どうでもいいけど今ぐっさんッつった?変?なんつーか部室で言われると変な感じ。あー教室限定だもんな。だろ、俺初めてだよぐっさんって呼び名。パイプ椅子がきしむ音がする。ロッカーを閉めて踵を返した先、椅子の背に腕をたれて、突っ伏している巣山がいる。帰んねーの?帰るよ、つーかマジ手がいてえ。
 部室の戸口の向こうには校門が見渡せた。電線がその上を伝っていて、黒いこぶがぼこりぼこりと浮いている。照明の落とされた空は群青に沈んだ。はっとしてよくよく見てみると、電線のこぶはカラスだと判る。ちょこまかと動いては電線を揺らし、飛び立つそばからまた降りたった。背筋を冷たいものが走った。
 巣山が立ち上がった。栄口が戸口をふさいでいるのをいぶかしむふうに声をかけ、肩口から外をのぞく。巣山は電線の鳥に気づいていないふうで、隙間に体を滑り込ませるとすっと外へ出て行った。はっとする。慌てて部室の照明を落として後を追った。途端、目の前が真っ暗になり足元がおぼつかない。
 わ、と声がした。ゴムのタイヤとコンクリートのこすれる音が鼓膜を引き裂くようだ。なにあれすげーな。ぼんやりと浮かび上がった巣山の顔は、電線の上のカラスを向いて引き攣る。硬直した背骨をなんとか曲げて鞄を肩にかけると栄口は足を前に出した。どうにもぎこちない動きだと自分でも思った。
 電線の上のカラスは人が近づいても飛び立たない。栄口と巣山は恐る恐るといったていで校門をくぐったが、その背中に向かって馬鹿にしたようにアーとカラスが鳴き、二人してびくりと肩を震わせた。なんかむかつくな。カラスのくせにな。向こうは人間のくせにとか思ってんだぜ多分。顔を見合わせて笑ったあと、巣山の、街灯に照らされた顔の頬の辺りが少しだけ赤くなっているのを見て、なんとなく考えていることが判ってしまった。薄く笑いながら巣山が栄口の鞄をとりあげ自転車の前籠に突っ込んだ。スタンドを立て一つ深呼吸している間、栄口はこめかみがひりついているのを感じたが気のせいだと片付ける。アー、アー。耳は間断なく不快な鳴き声を拾いあげた。その電線に向かい二人して叫び声を上げると、カラスは今度こそばさばさと空に飛び立ち、一時空を埋め尽くす。羽音と鳴き声で塗りつぶされた空を尻目に巣山はすばやく自転車に飛び乗り、栄口はその荷台に手をかけ走った。振り返ると向こうのほうの空にカラスが一群、空を旋回して飛んでいく。クソ、ざまあみろ。ゆるく走りながら呟くと自転車の上の巣山が大げさに肩を揺らせた。それが、だんだんと緩まっていく。とうとう肩が平坦になって、巣山はいきなり自転車を止めた。回転している足はそう簡単に止まらない。一メートルほどの間があいた。街灯の少ないこの辺りでは全て塊としか認識されない。ゆっくりと塊が動いたかと思うと鞄が胸元に放られた。なに苛ついてんだよ。息をのむ間もなく、前髪が風ではねかえり、薄く汗のはいた額があらわになった。前を向いたときにはもう遅く、巣山の自転車の泥除けに貼ってある発光ステッカーが、遠く揺らめいた。

 こめかみのひりひりする原因は判っていた。意識の奥底に押し込め簡単には浮上しないようにした、それを容易く巣山が掬い上げた。苛立ちよりも悔しさがつのった。
 数時間前だ。二塁ベースより、金属バットに弾かれてゆるくボールが転がっていく。定位置より少し一塁側で構えていた水谷は蛙のつぶれたような声を出し懸命に駆けた。飛び込んだグラブの先をかすめて外野に抜けていく。捕れただろ今の。たらたらしてんなよ水谷。巣山や田島から野次が飛んだが水谷はぐっと帽子のつばをひきおろしてなにも言わない。顔を見合わせて巣山と田島は肩を揺らせた。
 スパイクで掘り返された土にボールがイレギュラーしてグラブからこぼれ出そうになる。栄口は落としそうになったボールをまたジャッグルして、一塁に送球。少しだけそれる。指に変な感触が残った。あーあ、皮めくれちゃってるわ。一塁で送球を受け取っていた阿部が栄口の寄越したボールを籠に入れずに横に退けておくのが見えた。
 水谷が腰を落とす。その斜め後ろで水谷のノックを見守りながら、栄口はこめかみのひりつくのを感じた。

ハロー・ヒッチコック(050227)