なんて読むの、カズミ?
 不躾な声は背中から聞こえた。字面だけ見れば性を思わせない名前が、間違って音にするだけで露骨にそれを表すことにはもううんざりだった。漢字が表意文字であったことをこのときほど感謝したことはない。幼い頃から命名の折の祖父の手跡を眺めては自分を慰めた。体格のよくなってきた去年の辺りからは、冗談交じりにカズミと呼ばれることはあってもそこに悪意はみられなくなる。それよりもカズと名前の一文字で呼ばれることのほうが多くなった。
 振り返った先にはロッカーにだらしなくもたれかかって、島崎がしわになった部員名簿をめくっている。左肩のホチキスの針は紙の厚さに負け、何本かが重なってようやくとまっていた。
 カズキ。最後の音に力を込めた。部長から預かった部室の鍵を鳴らして帰宅を促したつもりだが島崎はその意を解さない。鼻を鳴らして、先輩もカズ、カズって言うからそれが名前だと思ってたと呟く。イニシャルKKだな。そういうなら、そっちだって。
 SSだと言おうとして、目を丸くした島崎の様子に動揺した。なにか気の触ることをしただろうかと思い巡らせたが身に覚えがない。島崎は河合の様子にようやく自分の時間が止まっているのに気づき、眉をしかめて名簿を一枚乱暴にめくった。
 桐青は私学中高一貫の学校だが、中学から高校進学の時点で外部入学も受け入れる。校風でスポーツ特待枠は多く、島崎はそのクチで野球部に入ってきた。しかし、去年の秋口から高校の練習に参加している持ち上がり組に比べれば部への慣れは浅く、部員の名前と顔はまだ一致していない様子だ。一方、特技とはいかないが、一度一致させればめったに顔と名前を間違えない河合は、すぐにそのひょろ長い体つきの内野手を記憶の隅に定着させた。
 島崎、早く着替えろ。足元の鞄を拾いあげ、まだアンダーシャツ姿の島崎を見下ろすと、座り込んだ背が丸くなり胡坐をかいていた足の、裏をあわせてストレッチを始める。なにも今、と舌を打ちそうになるのをどうにかとどめてもう一度強い口調で島崎、とたしなめた。すると急に背を伸ばして、投げ出した名簿を拾いあげ河合の名前が載っているだろうページを寄越してくる。
 もう、誰にもカズキなんて呼ばれてねーんだろ。だからなんだよ。……呼んでやろうか。虚を突かれて河合は一切の反応を止めた。息さえもつまる。無様に目を丸くするのを、島崎は返しの一手だと言わんばかりにねめつけ喉で笑った。名前をそのままに呼ばれることは血縁でももうめったになかった。誰も彼もがカズ、カズさんと呼ぶ。
 乱暴に脱ぎ捨てられたアンダーシャツがコンクリートに伸びる。立ち上がった島崎の背は河合よりわずかに高かった。河合の顎の辺りに肩口があたる。島崎のロッカーは河合の二つ向こうだ。重なる体に河合はいぶかしむふうに顔をあげた。その途端、島崎の指が制服越しに腕に伸び、今日新しくこさえた痣の辺りを強く押した。背は丸まり額が島崎の肩口にぶつかった。キャッチャーは大変だな、コントロールの悪いピッチャーとか、チップとか。遠慮なく指の力は強くなり、いよいよ額に汗が浮いた。震える手が島崎の右手を捉えようとするが逆につかまれ身動きがとれなくなる。その耳元へ島崎は和己と囁いた。今度じかに触らせろよ。河合は歯を食いしばり島崎を振り払うとその腹に右の拳を叩き込んだ。向かいのロッカーがけたたましい音をたて、背をぶつけた島崎が足を投げ出し顔をしかめた。それに部室の鍵を投げつけ河合は外へ飛び出した。手で押さえると、腕の打撲のあとが熱を持っている。

 梅雨に入ろうかという時節だがまだその気配は薄い。特別教室の集まる棟から教室棟をつなぐ渡り廊下は、吹きさらしになるためリノリュウムではなくモルタルのうちっぱなしになっていて、高い陽に照らされて白っぽく光った。衣替え期間に入った校内は冬服と夏服の生徒がまばらに散らばり、モザイクをつくっている。
 河合、いる?と問いかけた先の生徒は一瞬呆けたような顔をしたが、すぐに得心のいった表情で教室の中に目をやった。ゆらゆらと動く頭の方向を首を伸ばして見やると、窓際で机に腰掛けた河合がクラスメイトとともに笑みを浮かべている。
 和、と呼びかけられそのまま河合の顔が出入り口に向いた。島崎の顔に、少しだけ怪訝そうな表情を浮かべ近づいてくる。お前、河合だよな。なんだよいまさら。河合を呼んでくれっつったら変な顔された。……なんか用?
 昼休みはあと四十分ほど残っている。河合の問いには答えず腕を引っ張った。たいした抵抗もなくついてくる。廊下を曲がったところで腕を振り払われたが、文句を言うふうでもなかった。教室棟から外に出、クラブハウスへ向かう。朝連のときのまま、鍵のかかっていない部室は南向きの窓からすりガラス越しに陽が差し込むのみで薄暗かったが、風通しの悪い立地のせいで空気は熱くこもっていた。
 熱くね?用は?別に。部室の奥のパイプ椅子に座り、ネクタイを緩めた。シャツのボタンを外していくと、いつの間にかついてきた河合が、ロッカーにもたれて座り込み溜息をつく。シャツをコンクリートに脱ぎ捨てて腕をパイプ椅子に押し当てた。熱を奪われそこだけ冷える。脱げよ、熱いだろ。……次古典だから予習したいんだけど。嘘つけ、もうやってあるくせに。
 立ち上がろうとする河合の腕を引き首に手を伸ばす。反射で逃げようとするのをとどめネクタイを解いた。長袖のシャツは強情にも腕にひっかかる。お前、こういう趣味の人?ほざけ。胸の真ん中についた青黒い痣を強く押すと、眉をしかめるが声はあげない。これ、いつのよ?いちいち覚えてねーよ、つか、やめろって。ロッカーに押し付けるととうとう河合は声をあげた。だけどお前、キャッチングはうまいからそんなに汚くねーよな、全部チップだろ、これ。腹で押してやれば肺から一気に空気が抜けた。島崎の肩に額を押し付けてくるのを、この間と同じだと思いながらも後ろ暗い気持ちだった。和己。
 足が動くのには気づかなかった。折り曲げられた足が島崎の肩に当たり、力いっぱい伸ばされる。砂のはいたコンクリートに背中を強くこすった。擦り傷をつくったか、ひりひりと痛い。しばらく転がったままでいると、シャツを着た河合が腕を引っ張って島崎を起こした。背中を見て顔をしかめる。悪い、蹴って。そのあんまりな省略に島崎はまぶたをひくつかせた。薬箱を持ち出して処置をしようとするのを断って、お前、単純すぎるよと言いはなった。だいたい、先にやったのは俺だろ。つったって、これこのままにしたら絶対血が制服にしみてくるぜ。
 ありえないとそのとき島崎は思った。触れてこようとする河合の指を払って立ち上がり、シャツを掴みあげて駆けた。途中、水飲み場でシャツを水に浸して背中を拭くと、無残にところどころに血がにじんでいる。保健室に駆け込むのも恰好がつかない。そのまま教室に入り体操着に着替えた。椅子の背もたれにもたれるのを我慢していたら、いつもは睡眠時間のはずの午後の授業はちっとも眠れず、授業後の部活ではノック中にへまをやった。罰走グランド二十周である。そのあとに当番のボール磨きだ。すっかり暗くなったグランドから部室に引き上げると、本を読んで河合が待っている。もう終わった。その前には山のボールが磨かれて籠につまっている。息を切らせて島崎は、腰の横で拳を作った。殴ってやろうと近づいた河合は本に目を伏せて島崎を見ようとしない。震える拳はじきに力をなくし、その手が、河合にすがろうとしているのに動揺し舌を歯の間に挟みこんだ。嗚咽が漏れそうな喉を押えて謝罪の一言も言えない。

喉を押さえろ舌を噛め(050228)