目前にシャープペンを握りしめた右手があった。境界はぼやけている。目尻に涙がたまっているのに気づいた。シャープペンを押さえつけていたせいで変なあとができている指でこすれば、わずかな水滴と、抜けた睫毛がのった。斜め前に座った巣山が帰り支度を始めているので周りを見渡すと、もうほとんど人気のない図書館は薄いカーテンを透かして赤く染まった。水谷のついている白い机の左上、窓枠に切りとられた赤い光が揺らめいた。
左手をずっと置いておいたせいですっかり折りぐせのついた数学の参考書を閉じ、シャープペンをふでばこの中に放る。目標としていたページの半分しか進んでいない。消しゴムでなんども消したせいで黒ずんでいるノートが恨めしく、親指の腹で強くこすると、せっかく解いた問題の解答までもにじんでしまう。どうにもならないノートを前に水谷は少しの間呆然とした。巣山が席から立ち上がり水谷を振り返るまでそうしていた。
うながされ、不細工なノートを音をたてて閉じ乱暴に鞄につっこんだ。苛立たしく椅子をしまい、巣山と連れ立って図書室を出る。特別教室棟から一般教室棟へと至る渡り廊下は、図書室のある階に限って屋根がない。西陽をまともにうけて瞳孔は縮んだ。思わず閉じたまぶたの裏までも赤く染まり、それが陽によるのか体液によるのか判らなくなる。
自転車は生徒用自転車置き場ではなくグランド出入り口を出た脇に止めてある。校門まで回るのが面倒なのでいつもそうしているが校則違反ではある。フェンスの向こうは学校の敷地ではなく公道だ。志賀はしかし黙認している。
グランドを突っ切り、出入り口に手をかけて巣山は一つ舌をうった。うしろでMDウォークマンを取り出していた水谷は、立ち止まった巣山の靴の踵を踏んでしまう。覗きこめば南京錠がかかっている。無論朝登校したときには鍵などかかってはいなかった。振り向いた巣山に水谷は顎で上を示す。巣山は一時逡巡するように眉根を寄せたが、すぐに鞄を肩からおろして力いっぱいフェンスの向こうへと放り投げた。ウォークマンをしまいなおし、水谷もそれに倣う。一番上にベルトがひっかかりそうになったがかろうじて鞄は無事フェンスの向こう側に落ちた。モルタルの上の砂が舞った。
金網が二人分の体重をうけてきしむ。傍からすればそれほどの高さもないはずのフェンスが、このときばかりは高く見えた。伸ばした指は金網を掴んだせいで関節のあたりで血が止まってしまう。ちっとも上にたどりつかないのにじれていると、もう上にのぼってしまったらしい巣山の声が降ってくる。肺の底から空気を押し出し懸命に腕を、足を交互に動かした。やっと左手がフェンスの頂上の、砂にまみれたのをつかむと、一気に力が抜けたようになる。歯を食いしばりなんとか腕をしぼった。
水谷が体を引き上げるのを待って巣山は体をひるがえす。そうして体をフェンスからのりだして、ああ、と声をこぼした。やっとのことで上半身をひきあげた水谷は最初に巣山をうかがい、その目の先をたどる。西陽が今に雲の向こうに消えようとする。息を止めた。まぶたをおろすのをもったいなく思った。片手でフェンスにしがみつき、尻ポケットに入れた携帯電話を取り出す。パシャリと音のするので初めて巣山は気を取り戻し、金網をおおげさに揺らせた。
「巣山」
まだフェンスの上にとどまっている水谷を訝しむふうに見上げ、巣山は目を細めた。水谷は携帯電話をしまった。俺、セカンドに執着してんのかお前に執着してんのか判んなくなった。一息に言って水谷は口を引き結ぶ。フェンスの上に腕をつっぱって身を乗り出した。手の下で砂が鳴った。眉根を寄せて巣山は水谷を睨んでいる。訳判んねーとだけ寄越してくる巣山に、水谷もまた同じ言葉をくれた。ふざけんじゃねーよ気持ち悪い。まったくもってまっとうな返答に、水谷は笑いたくなってしまった。
フェンスの上から(050312)