校門のあたりで校歌が歌われている。毎年の恒例行事で、野球部部員が全員声を張り上げ卒業生を見送った。歌声というより声の集合と言ったほうがいいもので、関係ない者からしてみればほとんど騒音に近いものだが、近隣ではむしろ季節の節目のものとして歓迎された。卒業生は野球部部員の声におされるようにして学校を出て行く。校門に至るまでは恥ずかしげに笑みを浮かべていたのが、いざ校歌に包まれるようにして出るだんになって泣き出してしまう。
 上空では風が強い。勿論桜はまだ早く、並木は黒黒としている。薄く刷毛ではいたような雲が次々と東へ、形を変えながら去っていった。島崎は部室への道を急いでいる。鞄の中で妙に卒業アルバムが重く、揺するたびに背中を叩く。渡り廊下を走っていくうち校歌はとぎれた。レギュラーを残して見送りを打ち止めた後輩らが薄情なのではない。見送りがあると判っていながら、卒業式が終わってもなお、酒のない打ち上げと称して教室でいつまでも騒いでいた島崎のほうが薄情とは言える。
 午後からも練習が予定されているはずの野球部の部室は開け放しといってよい。モルタルに区切られた視界がパッと開けた。右手に見えるクラブハウスの扉はほとんどが開いている。走り寄り中を覗くと、季節を問わずこもるにおいが鼻をさした。申し訳程度にロッカーの上にのっている脱臭剤はまったく役目を果たしていない。そもそも島崎の記憶によれば一年時、入部してきたときからそれはそこにあった。ほとんど埃をかぶったそれは一見脱臭剤とは知れないだろう。窓を開けはなせばどうにかなるだろうものを、開け閉めの面倒臭さを理由に半月型の窓の錠はその形のまま放置されている。鈍く光る金属は薄く埃をかぶり、そこここに赤茶の斑を浮かせた。
 一番奥の使われていないロッカーを目指すうち、人の気配を感じて島崎は眉を寄せる。部員がいてもおかしくはない状況ではある。後輩であれば見送りが終わってすぐに部室に走ったのだろう。卒業生ならば島崎と同じ理由だ。
 一番奥のロッカーは使われていない代わりに物置と化している。三年生は引退後すぐにロッカーを開け放すのが決まりとなっているが、不注意もしくは故意の忘れ物が毎年多く出た。それらは集められ一番奥のロッカーに押し込まれる。使えるものは後輩が持っていくし、島崎と同じように卒業するときになって回収していくのも多い。いささかたてつけの悪いロッカーを足で蹴りつけて開け、中を物色したが島崎の目当てのものは全て持ち去られた後だった。別になくなって肩を落とすようなものではなく、消耗品といえば消耗品である。後輩の役に立ったと思えばと島崎はロッカーを閉めた。
 うずくまるようにして高瀬が腕に顔を伏せている。気づいて島崎は肩を躍らせた。部室を出ようと踵を返した先である。あれから少し髪を切ったか、髪型は変わっていたがエナメルのスポーツバッグに書かれた擦り切れた文字は高瀬と読めた。なんだよ、びびらせんな。ほとんど溜息に近い声が島崎の喉から漏れたが、高瀬の反応は予想以上に遅かった。のろのろと顔をあげて額をてのひらで支える。目尻の赤くなっているのを見て、島崎は鼻を鳴らせた。慎吾さんこそなにしてんスか。エロ本取りに来た。んなもん残ってねーッスよ、引退した日に皆で分けたんだから。だろうなー、あー、ちょっとだけ惜しくなってきた。パイプ椅子を引っ張ってきて座ると、高瀬の頬が引き攣った。当たって砕けたか。はあ?……和に。
 笑みのこもった島崎の声色に高瀬は色をなくし、前髪をかきむしった。鞄のベルトを手繰り寄せようとするその伸びた腕を島崎は見る。顔をあげた高瀬は目を腫らしてはいたが、水分のない乾いた視線を島崎に寄越した。当たってすらいないッスよ、俺、臆病者で、いい後輩ですから。なに言ってんの。和サンは、言いさして高瀬は息を吸った。陽が雲にかぶったか、それまで入ってきていた淡い陽光が薄れた。
「いやになるほど公平なんスよ、あの人」
 鼻を鳴らせた。腫れた目で見上げてくる高瀬を、このときほど腹立だしいと思ったことはなかった。ふざけんじゃねーよ、自分の声は震えてはいなかっただろうかと思う。ふざけんじゃねーよ、そんなのみんな知ってることだろ、気づいてなかったんじゃなくて気づきたくなかったんだろ、悲劇の主人公気取ってんじゃねーよ、浅ましいよお前。蹴るようにしてパイプ椅子から立った。ひどい音がした。あいつは全部知ってる、お前の考えてることなんて見え見えなんだ、滑稽だな。
 ……口から流れ出る言葉の滑らかさに慄然とした。血の気のうせた顔をしている高瀬を置いて、島崎は忙しげに部室を出た。薄暗い部室から急に陽のもとに引きずり出された瞳孔はまたたく間に収縮する。つっかけたスニーカーの踵を跳ねながら直しているうち、風の強くなっていくのを首のうしろで感じた。ぽつりぽつりと人の残っているだけの校門を見ると、耳元で校歌のうなるのを感じる。視界は野球部のユニフォームで埋め尽くされた。軽くめまいを感じながら校門をくぐり、高瀬の言葉を、自分の言葉を反芻すると、えもいわれぬ虚脱感にみまわれ島崎は立ち止まりそうになる。足の小指にぎゅっと力を入れた。
 周りの人間に分け隔てなく与えられる安心とその距離の遠さに絶望を感じたのは、島崎や高瀬ばかりではないはずだ。その緩やかな拒絶もまた共有されてしかるべきだ。歯の根を鳴らし、島崎は駆けた。鼻の奥が途方もないほど痛い。卒業アルバムを、あのロッカーに捨ててこればよかったと、鞄が背中を叩くのを感じながら思った。表紙を開けた左上だ。達筆のあの字を見て思うのは、やはり安堵と拒絶なのに違いなかった。

凛(050319)