カーテンを引く音がしたが長谷川は目をやるのさえ億劫でふとんにくるまっている。面会に来る人間などほんのわずかで、数日前に先に退院した万事屋のがふらりとあらわれて三十分だけ話をして帰っていったきりだ。話題は終始ナースステーションの看護婦の愛想が悪いだの、今そこの廊下ですれちがった看護婦のスカートが短すぎるだの、そういうことばかりで坂田の口から見舞いの言葉なんて出てきやしない。いいかげんうんざりして、お前なにしにきやがったとこぼすと、看護婦を拝みに、と真顔で言ってくる。長谷川はその途端に坂田が見舞いに持ってきたりんごを投げつけてやったが、坂田はひらりとかわしてニヤニヤと笑いながら病室を出て行く。床にはその投げつけたりんごが転がっていて、軸の横に真っ黒な穴があった。ぎょっとして、投げた瞬間のいやな感触を思い出し指を見る。すると青虫が人差し指の第一関節のあたりでつぶれていやな色の汁が手のひらのあたりまで垂れてきている。おそるおそる左手で触ってみると、粘っこく糸を引いた。長谷川は顔をしかめ、カーテンをつまみあげるとその端のほうで手をぬぐった。それ以来ずっと人差し指を使ってものが食べられないでいる。洗っても洗ってもあの色が肌色の上にのっているような気がして、わずかな影が指にさしていてもぎょっとしてしまう。せせこましいのは性根だった。

「ああ、長谷川さん寝ちゃってるわあ。どうします?」
 最初はその声の大きさに閉口したものだがもう慣れた。担当の看護婦は大仰に溜息をついてカーテンを引きなおした。この人、今まで不規則な生活してきたみたいでねぇ、就寝時間にずっと起きて煙草吸ってたりするんですよぅ、だからこんなに退院遅れてるんだわ。
「病院はそもそも禁煙ですよねえ」
 矢継ぎ早に繰り出される声に圧倒されたか、相槌はずっと時間が経ってから聞こえてきた。男の声だ。聞き覚えはない。長谷川は気づかれないようにカーテンを開けると、看護婦の背中を覗き見た。白いその向こうに、あの、黒い服だ。
 長谷川はそれだけでまったくいやな気分になって、カーテンをつかんでいた手をはなそうとした。しかしその前に、その男の、ああ起きてらっしゃるという声が聞こえてくる。まばたきをする間もなく看護婦の向こうから、髭面の男の顔がひらめいた。男が動いた途端に腰のもののたてるあの音がしたので、長谷川はそこでようやくその顔と名前を頭の中でつなげた。

 近藤はどこから持ってきたのかパイプ椅子をベッド脇に据えた。座りが悪いのかもぞもぞと体を動かすたびに刀が椅子にぶつかって迷惑な音をたてている。長谷川はとうとう我慢ならなくなった。
「そいつ、外したら?」
 近藤ははっとした顔で、そうですよね、そもそも病院で、と言いながら刀を腰から抜いて膝の上に置いた。体からはなす気は毛頭ないらしい。
 あの、将軍謁見の時だってそうだった。三十にも達していない若造が、帯刀して謁見の間に続く廊下を歩いている。隊服だってピンとのりの効いた新品そのもので、今度新設された警察特殊部隊の局長だろうとは簡単に予想がついた。帯刀したまま謁見の間に入ったらどうなるかも知らない田舎者か、そうだとしてもそれを誰も教えようとしない。設立の折り、なにごとかもめたとは聞いていたが相当に煙たがられているように長谷川には見えた。
 そうこうしているうちにとうとう男の右足が畳の縁にかかるところだ。それなのに誰もなにも見ぬふりで、長谷川は目一杯に腕を伸ばして男の腕を引っ張った。空気が張るのがいやでも判った。長谷川は一つ舌を打って、男に耳打ちをする。帯刀はやばいんだよ兄ちゃん。
 すると青年は目を丸くさせて、どうしてもだめですか、手をはなしたくないのですと言ってくる。充血して乾いた目の表面に、見る間に水分がわいた。長谷川はもうその時点で腕を引っ張ったことを後悔したが、助けを求めようにも鼻つまみ者なのは自分も同じなのでおいそれと誰かに声もかけられない。白い目をして長谷川と青年を見ては通り過ぎていくのみだ。もちろん目を向ければあからさまに顔をそらされる。溜息をつく気分で青年を控え室まで引っ張っていき、携帯で部下を呼び出して刀を預けさせた。青年は最後まで渋っていたが、謁見の間で帯刀が許されてるのは天人様だけだ、人間には許されてないんだよ、死にたくなかったら大人しくしなと教えてやると、眉をひそめて刀を手放した。
「親の形見か?そんなに大切か」
 そんなものですとあいまいに答えた青年は、近藤と名乗った。長谷川と名乗ると、近藤は心得たふうに入国管理局の、と言ってくる。そうしてはっとしたような顔をして長谷川から顔をそらした。
 謁見の間の作法は教えなくても、親切な輩が吹き込んだに違いない。入国管理局の局長は天人様におべっか使い、金とコネで局長になったうつけだと。長谷川は近藤の素直すぎる反応に苦笑いしたが、訂正するようなこともなにもないので黙っておいた。サングラスを外して廊下を急ぐ。すでに鐘は鳴らされている。時間がないことを察したか、近藤はもうなにも言わずついてきた。

「辞めなさったって、先日聞きました」
 前口上に長くなりそうだったので、長谷川は手をあげてぞんざいに振った。尻にあたっているシーツのゆがみが気になった。このところ寝てばかりいるので骨がすっかりゆがんでいるに違いなかった。
「辞めたんじゃねえよ、腹切れって言われたから逃げただけ」
 それよりよぉ、と顎をさする。あたっていない髭が痛い。
「勤務中じゃねえのか」
 見回りの途中なんですと近藤は笑った。なるほどそれは本当らしい。窓の外に近藤と同じ隊服が二人見えた。手持ち無沙汰なようで目はしっかり監視に集中しているのが上からはよく判った。長谷川はそういう仕事熱心さにはもう辟易していて、この横の男もあんな目をするのだろうかと、そう考えるだけで胃が重たくなる。とうに血を吸っているだろう隊服が、陽があたってもなお底なしに黒く見えた。
「もう戻った方がいいんじゃねえの、あいつらしびれ切らしてるぜ」
 窓の外ではあの二人が口喧嘩を始めて、ぎゃあぎゃあと喧しい。長谷川は無意識に、人差し指を親指で強くこすった。もう癖になっている。それからよ、その隊服にはいい思い出がねえんだよ、やめてくれるか。親指の指紋はもう削れてしまっていて、長谷川はそれから犯罪者の指を思い浮かべた。火であぶってできた、つるりとした火傷の痕が指の先を平らにしている。もうそうなると指先の感覚が遠くなると聞いた。
「ああ、じゃあ今度はちゃんと勤務外のときにきます」
 あっけらかんとした声だった。長谷川は指をこするのをやめた。すでに薄暮になっている窓の外から目を外すと、近藤は立ち上がって腰に刀を差している最中だ。軽く会釈をすると長谷川が声をかける間もなく病室から出て行った。しばらくして窓の外の口喧嘩がぴたりとやむ。見下ろすと黒いのが三人、大通りを下っていった。
 長谷川は気の抜けたように上半身をベッドに沈ませて、両手をかかげた。指紋のないのはどの指だ、汚れているのはどの指だとよくよく見てみても、夕陽の照らす時間にそんな判別がつくはずもない。目の前にもってきて、サングラスを上げて見てみるとどの指にもあのぐるりとした筋はあるし、あのいやな色だってどこにもない、あるのは三十路男の節くれた、がさがさとした手だけだ。
 そうして、近藤の言うことを反芻してみて、ああ、またくるのか、坂田よりはマシだと思うと気が楽になり、長谷川は布団をかぶって目を閉じた。

ゆうさり(050102)