コップの中の透明な液体をすするように舐めて、なんとも味気ない舌触りに、おやじよぉ、水出してんじゃねえぞ、酔ってるからってサギ働くんじゃねえと、叫ぶ。坂田の頭は瞬時にカウンターに叩きつけられ、あとには白けた空気が足の、すうと冷えたあたりに漂った。坂田は自分の後頭部にのっている長谷川の手をぞんざいに払うと、コップの中身を一気に飲み干して席を立とうとする。その足が砕け落ちた。すんでで近藤の腕が腹にまわり、モルタルに額を割ることはまぬがれたが足を変なふうにねじってしまってそれからどうすることもできない。頭は働いているのに感覚器と動作器が思うように動かない。もどかしい。乱暴に頭をかきむしり舌を打つと、両脇で溜息の音がする。わりぃ、水一杯くれよ。長谷川の声はとうとう遠い。コン。バチャ。目の前のモルタルが濃く変色した。水だと気づいたのはもっとあとで、首の後ろから服の中に水のたれていくのを感じて坂田は思わず情けない声をあげた。
 勘定かい。あ、俺が払いますよ、こん中で定職ついてんの俺だけだから。一言多いよお前。本当にねぇ、あんただってちょっと前までどっかのお偉いさんだったんだろ、テレビかなんかで見たことあるよ。天人殴ってリストラだよ俺ぁ。ハハ、そいつぁいいや。
 頬をモルタルに押し付けて坂田は、ぼんやりと店のおやじと長谷川と近藤の会話を聞いている。目がとけて出てきそうだ。舌もだ。だらりと伸びた舌を唇のあいだから出して、モルタルを舐める。なんの味もせず舌の先が痛い。拾った砂が歯の裏に入り込んでもうとれない。筋肉の延長が、どこをどうしたら甘いだの辛いだのを感じ取れるのか不思議でならなかった。ああくそ、このあとはファミレスでチョコパフェを食うはずだったのに、案外とはやく酒がまわりやがった。久しぶりだからだ。
 重いなこいつ。腕が持ち上がり長谷川の肩にまわる。ああだめだ、体力ねえなあ。意識のはっきりしている体とそうでないのとでは感じる重さがまったく違う。膨らみ、緊張してばねの効いた筋肉は、いったん制御を失えばただの肉に成り下がる。だらりと伸びるとはよく言ったもので、緊張のない肉はぶよぶよとして、皮膚さえ意味を失い延長する。今の坂田の舌のように。
 坂田は結局近藤におぶわれた。九月下旬の空気は温い。汗と酒の臭いが始終こもった風は吹いても不快指数を上げるだけだ。濡れた髪がベタリとうなじや耳にはりついている。坂田が熱い息を吐いて軽くえづくと、近藤の肩が小さく揺れた。声を出さずに笑ってやった。万事屋より俺ん家の方が近いな、行くぞ。近藤が低くうなって坂田をおぶりなおした。

 そなへんに転がしとけ。長谷川はアパートの土間から手を伸ばして電灯をつけると、近藤の通るスペースを作って体を横に退けた。ふすまを開けた先に、起きたときそのままにシーツのよじれた万年床だ。近藤は首をひねり、布団ぐらいはあげましょうやと笑い含みで長谷川をからかう。冷蔵庫の開く音がしたと思うと坂田は布団に転がされた。胃がはねる。その中の液体が波を打つ。
 奥さんはいないんですか。リストラで実家帰っちまったよ、前は宿舎住まいだったからな、追い出されてアパート住まいだ。
 プシ、とプルトップのあける音が二つ重なる。ああくそ、あいつらまだ飲む気でいやがる。坂田は延長した腕をなんとか使って体を転がすと、ふすまの向こうすきまから目を凝らした。なで肩の向こうに、結城を流した侍の顔が見える。目尻の辺りがかすかに赤い。ほころんだ口から白い歯がこぼれた。ヤニは吸ってねえのか。男の部下の、瞳孔の開いたのの顔を思い浮かべ、あいつの歯の裏はヤニで真っ黒に違いないと坂田は思う。顔を反対側に向けて目を閉じる。ふすまからこぼれる光が一直線に片目を照らして、右の方だけ赤く血潮の流れるのが見えた。

 そろそろおいとましますよ。近藤の声で坂田は目を開ける。相変わらず片方だけ視界が赤く、焼けついてしまったようで目を開けてもまぶたの上で光がはねる。目をこすりこすりふすまの向こうを窺うと、八個の空き缶の並んだテーブルの向こうで頬のあたりまで赤くして近藤が立っている。見上げたふうの長谷川の顎のあたりに汗が光った。坂田も寝汗をかいている。肘の裏や首筋に手をやるとぬるぬると滑った。
 酒までご馳走になっちまって。気にすんな、あの酔っ払いおぶってアルコールなんざ飛んじまったろ。ハハ、じゃあ。
 ドアの開く音がする。淀んだ部屋に一気に冷めた風が吹き込んだ。坂田の、すっかり水分の飛んだ前髪がまきあがった。
「近藤」
 喉の、腹の奥から絞り出したような声がその空気の下を這いずった。出した本人が一番驚いているようで、緊張した肩のあたりがカタカタと動く。近藤がすっかり赤い顔で長谷川を見ると、くっと目をはって、開けた口の歯の向こうから舌先が見え隠れした。
「なんでしょう」
 近藤はようやくといった様子でそれだけ、口からこぼした。影を踏まれていたのが急に自由になったようで長谷川は肩をわななかせると、テーブルの上の空き缶を片付け始める。なんでもねえよ、気をつけて帰んな。近藤はほっとしたような顔をして、静かにドアを閉めた。それだけで一気に空気が淀む。
 ……てめえは、どこまでいってもダメだな、まるでダメだ、マダオって呼んでやらあ。ふすまからのそりと顔だけを突き出して、坂田がそう舌にのせる。長谷川はすっかり濁った目を坂田に向けてうるせえ酔っ払い、さっさと寝ろと悪態をついてとうとう膝に手をついた。
 坂田は一つ溜息をつくとふすまをぴしゃりと閉めて万年床まで這っていき、布団に横になる。こいつぁダメだ、見込みがあるない以前の問題だ。坂田は一つ呟くと、目の上に腕をやってすうと意識を沈み込ませた。

遠すぎる(050103)