刃を思い浮かべた。坂田はマフラーを口のあたりまで引き上げると、そこに息をはきかけた。冷えた毛の繊維は湿って温もったが、すぐに冷たく凍りつき坂田のくちびるをこする。志村が外は冷えるからマフラーをしていかないとつらいと、出かける坂田の背中にそれを叩きつけた。姉の作であるらしい太い毛糸で編まれたマフラーは、ところどころ網目の大きさがずれているので歪んでいる。しかし伸びきった毛糸の様子で、志村がそれを愛用しているらしいことがうかがえた。今日も志村はそれを巻いてきていたと思う。
冬の空気は刃だ。坂田は言われたとおりに人気のない畑の傍の道を歩いている。街灯のぽつりぽつりと浮かぶ下、白菜の葉が上のほうで縛られているのがずらりと並んでいて坂田は気分が悪くなる。目線を上にあげると灯りがとんでもない光量で網膜を焼き、まつげの上ではねっかえる。街灯の下で坂田は少しだけ足を止めてまぶたを押さえた。
まぶたを開けてみれば、畑のずっと向こうに車のような影が見えた。小走りに近づき、運転席に人の乗っていることを確かめるとその窓を叩いた。切れる息は片端から白く坂田の顔を撫ぜる。返事を待たずに後部座席に乗り込んだ。運転席から首を巡らせて、長谷川はぎょっとしたように覗き込み、それが坂田だと気づくとふざけんじゃねえと低くうなる。
十時をまわったころだった。階下から聞きなれた大家の声が坂田の名を呼んだ。夕方のドラマの再放送を四本続けて見ていたその途中で、あと四十分ほどで録りだめていた分が見終わる。最初は無視を決め込んでいた坂田だったが、あまりにしつこく響き渡るのでテレビの音量が追いつかなくなり、うんざりとした顔の志村に急かされるようにして階下に降りた。半眼の坂田の前に電話が押し付けられ、警察からだよ、と煙草を吸い吸い言われる。ぎょっとして電話口に向かって息を吐くと、闊達とした声で元気かと機嫌を伺われた。鼓膜をひりつかせる声の持ち主を探っていくうち真選組の局長と知れた。
お客さーん、どこ行きますか。半分投げた風に、長谷川はエンジンをふかしギアを切り替えた。坂田はバックミラーの、サングラスのない長谷川の顔を覗き見てヒと笑った。足を前の座席の肩にのしあげると、目に見えて長谷川の眉がひそめられた。またタクシーの運ちゃんか。言ってなかったか。そもそもここ一ヶ月会ってねえ。ああそうか。ハンドブレーキを下げる。ようやく効き始めた暖房が、坂田の鼻の先を暖めた。
でもあいつは知ってたぜ。長谷川があいつとは誰かと訊き返す前に坂田は足を下ろし前部座席の隙間から顔を出した。
「真選組の屯所まで頼むわ」
屯所の前の道を西の方にずっと行くと白菜畑があって、その途中のあたりにタクシーが止まってる。それがどうしたと電話口に向かって返すと、近藤は、それに長谷川さんが乗ってると言ってきた。カウンターでやいのやいのと騒ぐ客を背に、坂田は左耳に指を突っ込み煙草を煙を避けるようにして背を丸めた。お登勢の視線がそれに刺さる。そろそろ切り上げないとまた小言がうるさくなるのが目に見えていたので坂田は早口で長谷川さんがどうしたと捲くし立てた。
十時ごろになるといつもその辺りにタクシーを止めてサボってるから、カンパのつもりで長谷川さんも連れてこい、タクシー代はこっちが出すから。……了解。麻雀の誘いだった。二人も所用で抜けてしまってどうにもならず、他にできるやつも見当たらないのでこっちにこないかと言われた。そこにいるのはあんたと、誰だ、あの瞳孔開いたやつか。低くうなるように笑って、近藤は総悟だと返した。トシは麻雀やったことないからな。
酒も、歳暮にもらったちょっと豪勢なつまみもあるからと言われて動く気になった。そろそろお登勢の目がきつくなってきている。承諾して早々に電話を切り上げると、半分追い払われるようにしてスナックを出た。身を切る寒さに指が震えた。こんなに冷えてしまった指先で牌がきれるだろうかと本気で思い、指先に息を吹きかけ暖めた。
麻雀なんざここ数年してねえな。ああ、じゃあカモにしてやるわ。お前打てるのかよ。打てなきゃこんなところにいねえだろ、見てろよこの黄金の右手を。なんに使うんだか。坂田は近藤が、と言ったときの長谷川の反応を思い出している。眉を少しだけ上げて、とうとうと語る坂田の顔をちらとも見ずにハンドルをさばく長谷川の顔だ。顔の変化はそれだけだったが、無意識だったのだろう肩の強張りを坂田は見逃さなかった。忙しくハンドルを叩く指先の色がうんざりするほど白くなって、長谷川は苛立っている。効き過ぎてきた暖房のスイッチを切り、額の生え際のあたりを指でこすりあげた。ライトが屯所の門をかすった。長谷川さんよ、もういいかげん、言いかけたときだった。屯所の前に人影を見つけ、それが近藤の形を成したと思ったら、エンジンがうなりを上げ視界の人影が無残に崩れた。背もたれに手をかけ坂田は怒鳴った。長谷川の肩口から覗くスピードメーターの針が息を呑む速さで円を描く。後ろを振り返ったがもう遅かった。近藤が持っていたのだろう行灯の灯りはすでに針の先だ。もう一度怒鳴ったそのとき唐突にブレーキがかかった。ゴムがアスファルトをこするいやな音がしたと思ったら、坂田の体は制御を失って前につんのめり、危ういところでついた左手に救われた。ダッシュボードに頭を割られる想像に肝が冷えた。
あんた、いいかげんに。右手の長谷川を振り返ると、当の本人は頬に額に汗をかいて、ひゅうひゅうと喉を鳴らしている。ハンドルを握る手に額を置き、ときおり変な音を混ぜて呼吸をしている長谷川を見るうち、坂田はもう怒りを通り越して哀れみがわいてきて、右手を外して後部座席に座りなおした。そのうち暖房を切ったのが効いてきて、足の方から冷えた空気がざわざわと皮膚を撫でてくる。長谷川が暖房のスイッチを入れて、ハンドルを握りなおしたころには坂田はもう後部座席に寝転がっていて、好きなんだろと呟いた。途端に長谷川の肩が熱にやられた金串に突き刺されたようにびくりと震え、それがだんだんと緩まっていく。
さっと窓の外で人魂が揺れ、運転席の窓がコツコツと鳴った。反射で上半身を起こし頭を天井にぶつけ坂田はうめく。判っている。反対側のドアを開け外に転がり出た。運転席の横に、行灯の光で顔を照らして近藤が立っており、開かない窓に困惑した様子で坂田を見た。
「先、行ってる」
マフラーをきつく巻きなおし車から離れるが、振り返った先、行灯の光がすうとタクシーの中に入っていくのを見て、また二人抜けちまったと息を吐いた。がさついたくちびるがマフラーにこすれて痛い。
されば冬(050117)