あのね、おしょさんがね、くらいほんどでね、なむちん、かむちん、と、まりつきうたに合わせるようにして赤い小指の先ほどの点が上下する。天も地もなく、ただ赤黒いような白いようななんとも色彩の区別のつかない中で点は上下に飛び跳ねていたのだが、そのうち斜めに動き横に動き、消えては現れしてちかちかと瞬いた。そういう夢ともつかないものを見ているときは必ず、アイマスクをするのを忘れたときで、目覚めはすこぶる悪い。なにしろまぶたの上ではねっかえる、その点を振り切ろうとして早く目覚めようと思うのにそういうときに限ってからめとられたように身動きがとれない。キャベツでぽん、で終わったかと思うとまたあのね、と耳元で囁かれるようにしてまりつきうたは繰り返され、ああとかううだとかを呻くうち、赤い点がどんどんふくらみ、縦横無尽に動き回った。
 幕府お預かりになってあてがわれた屯所に越してきたとき、最初に話をしたのが裏手に住む好々爺とその孫娘だった。父親と母親を攘夷戦争のどさくさで亡くしてしまったとからからと笑って話したその娘は沖田と同い年ぐらいに見えた。笑うと目尻に小さく皴が寄るのがかわいいといつか話したが、そのときは、そんな無表情で言われても嬉しくないと突っぱねられ、随分と痛い思いをした。好々爺も近所の皆も彼女のことをやっちゃん、やっちゃんと呼んでいるので、名前はやえか、やつかそのどちらかだと沖田は思っているが、もう屯所にきて一年にもなるのに今更名前を聞くのも無粋な気がして、とうとう本当の名前を聞かずじまいだった。二年目の、蝉のうるさい盆の終わりを最後ににふいとその二人は家から出て行ってしまい、それに気づいたのも夏の終わりになってからのことだったので、もう行方を訊こうにも遅すぎる。雪のちらつくころにはもう、あのからからとした笑い声だとか、目尻に寄る小さな皴だとかに思いを馳せることはなくなってしまっていた。忘れたころに、屯所の裏口から手入れのされなくなった甕の汚れ具合だとか、破れッぱなしの障子を見て、ああ、今やっちゃんはどうしているんだろうと考える。そうして思い浮かぶのは、ぼんやりとした影だけでどうにも顔かたちがはっきりしない。これは駄目だ、もっとしっかり思い出さなければと思えば思うほど、その影がもっとぼやけてとうとう境界線もはっきりしなくなってしまう。するとそのぼんやりとした影の真ん中から赤い点が現れてきた。

 一人で斬りすぎた、と沖田は思った。右手の刀は脂でもう斬れなくなっていて、最後の方はほとんど斬るというより殴りつけていた。それでも十分骨は折れるし、息の根を止める方法など他にもたくさんある。てのひらが濡れてすべり、柄を持つのにも一苦労だ。刀を握ったその拳で、またがった男の頬骨を砕いていると、おいおい沖田の、やりすぎだ、もう死んでんじゃねえか、という声がする。そうかもしれねえがもうどっちでもいいじゃねえかと思うと腕が止まらないんでさぁ。そう返そうとも思ったがくちびるがのりで張り付いてしまったようで開かない。端のほうからべりべりとうわくちびるとしたくちびるをはがしていくと、触れた舌先にかなさびの臭いがきつく残った。そこでようやく沖田は起き上がり、男の頭を蹴ってそこから引き上げた。
 屯所の前まで帰ってきて、どうにも今日はやりすぎた、これで屋敷の中に入ったら、この間張り替えたばかりの青畳が大変なことになる。思いついて隊列から離れ、裏手の川に走っていった。秋の野分がこの間来たばかりで、川は増水している。堤を下り、低木に刀を引っ掛けると服を着たまま川に入って顔を洗った。日付の変わる時分のことで、あたりも静まり返って灯りもなにもありはしない。暗い水のそこが見えるはずもなく、ゆらゆらとそこに赤の混じっていくのを沖田は手や足を振り回しながら想像した。潜って髪をかき混ぜ、ところどころひっかかっているのを乱暴にほぐした。てのひらを触ってみると、中指や人差し指に細い糸が絡み付いている。
 膝の辺りに水がくるところまで難儀して歩き、平たい一枚岩に腰掛けた。そろそろ気温が下がってくる季節がやってきている所為か、水に浸った腰周りからどんどん熱が吸い取られる。立てた膝に腕をくれ、うなじを折って溜息をついた。耳の辺りを強くこすり、顔を手でぬぐう。そうしていると総悟、総悟と呼ぶ声がするので、誰か呼びに来たのかと堤の上のほうを見るが、人影なんて見分けられるわけがない。首をねじってぐるりと後ろを見渡すが誰もいやしないので、空耳と決め付けてまた首を折った。すると今度は総ちゃん、総ちゃん、と声がする。そんな風に呼ぶのはここにはいないはずの郷里の姉しか思い当たらず、気味が悪く立ち上がった。ああ、総ちゃん、総ちゃん。普通に聞こえていた声は、いよいよ切迫してか細くなっていく。幽霊なんているわけがないと思っている。沖田はようよう水をかきわけ、岸にたどり着くともう一度辺りを見渡した。すると向こう岸で、あの赤い点が上下している。またあの声がする。ぎょっとして目の辺りを撫でる。アイマスクはしていない。なるほどこれは夢かと思っていると、おい総悟、と強く肩を叩かれた。肩をわななかせて振り向くと、疲れた顔の土方が行灯を持って立っている。その間抜け面を見ているとここはどこだということも判別がつかなくなり、ただ重たい衣服が沖田をそこに縫いとめた。背後から、ほとんど悲鳴になったあの声が聞こえてくる。恐る恐る振り返ると、あの赤い点が、もっと大きくなって沖田に迫って来ていた。

「やえさんのことですか。はい、よく覚えています。いきなりやってきたむさくるしい男集団にもよくしてくださって、器量もよいので近所でも評判でした。けれどちっとも浮ついたうわさを聞かないので心配していたのですが、本人にはちゃあんとそういう人がいたらしいです。そういう人といってもやえさんの片思いで、しかも、あんな人を好きになってしまったが、一生あの人のことを想っているつもりだとこぼしているのをある日うっかり聞いてしまいました。すわ、あの人とは誰だ誰だと監察の手前血が疼きまして、今考えてみればただの野次馬ですが、あの頃はやえさんばかりが野の花でしたから悔しさ半分憎さ半分といったところで、ようは相手のやつの面を拝んでやりたかったのでございます。醜男だったら鼻で笑い、かなわないような男だったらそれはそれでよいのです。やえさんのことは好ましく思っていましたが、こういう仕事をしている手前、そういう対象に考えたことは一切ありません。ああ、まあ、少しぐらいはと思ったこともありましたが。
 ……やってきて二年目の夏でした。あれは夏祭りの最終日だったのです。その頃ここらではチンピラ連中が盛ってまして、夏ということもあって、女性の方も薄着でしょう、祭り帰りの浮ついているところを、川べりや人通りのない茂みに引っ張り込んで、それはもうやりたい放題だったのです。被害者は数知れず、一晩に何人もいた様子。犯人はどういう風体だったなど訊いても、真っ暗だったので判らない、もう思い出したくないと被害者の方が言うのはもっとものことで。唯一つ、赤い点がゆらゆらとしていたと言うのです。おそらく連中の持っていた行灯のことでしょう。それだけでは到底判りっこありません。屯所のすぐ裏手にも川があったので近所の方に頼まれて、非番の連中で集まって毎夜見回りをしたのを覚えています。
 やえさんが見つかったのは、ちょうどこっちの仕事のある日でした。ある商家の蔵から兵器が見つかったのでございます。攘夷派の根城になっているのがその日の前日に判り、踏み込んでみたらその有様。その数日後にもターミナル襲撃を図っていた様子で。隊員総出で検挙して、屯所に帰ってきたのが日付の変わって随分たった頃。見つけたのは、沖田さんでございます。裏の川で服についた血を流しているときに、向こう岸で襲われていたのがやえさんだったらしいのです。犯人は四人全員その場でつかまったのですが、もう、ほとんど虫の息で、全治三ヶ月や半年やら、下半身がまったく使いものにならなくなったのもいたようです。はい、沖田さんでございます。川を渡っていって、そこにいたの全員、素手で」

 総ちゃん、総ちゃん、と声がするので振り返ると、やえが両手で抱えた籠にいっぱい干し柿を詰め込んで屯所の中を覗き込むようにしている。井戸端で上半身を拭いていた沖田は、すぐに着物を正してやえに駆け寄った。干し柿いっぱい作ったの、皆で食べてね。腕を突っ張り籠を沖田に押し付けてくる。沖田が返事もせずにその籠を受け取ると、ぱっとやえは走っていってしまった。屯所の門からその後姿を見ていると、角から小さな子供がやえに走りよって、まりを一つ差し出している。なにかおねだりするようで、ゆらゆらと揺れる手にやえが苦笑いをするのが見えた。
 あのね、おしょさんがね、くらいほんどでね、なむちん、かむちん、着物の裾を気にすることなく、まりをついて見せる。キャベツでぽん。子供にまりを返すと、子供はやえのやったとおりにまりをつこうとするが、最後のところで掴みそこねる。沖田はなにとはなしにそこまで走っていって、やえの隣に立った。なに、見てたの。大根足が丸見えでしたぜ。頭を強く小突かれた。
 そこでね、こう。やえは熱心に最後のところを教え込む。なんどか失敗して、六回目にようやくできた。成功したときの子供の笑顔といったら、こちらが恥ずかしくなるほど眩しくて、沖田は目をしばたかせた。子供はなんどもやえに礼を言って向こうのほうにかけていく。やえが、かわいいわねえ、あんたにもあんな頃があったとは考えにくいわねえと呟く。沖田は籠の中から干し柿をつまみあげて一口かじりとった。それはこっちのセリフですぜ。もごもごとやっていると、足を踏まれた。
 一つ頂戴。沖田が一口かじっただけの干し柿を差し出すと、やえは少し顔を赤くして躊躇うようにする。けれど思い切ったか口を開けて、少しだけかじりとった。親指がそのくちびるにあたって、沖田はそのときどうしようもないぐらいの身の熱さを感じとる。やえはもう一度沖田の足を踏んで、向こうの方に走っていった。沖田は籠を抱えなおし、屯所の門をくぐった。やえの声が耳をついて離れない。あのね、おしょさんがね、くらいほんどでね、なむちん、かむちん。にわかに額に浮いてきた汗をぬぐおうとてのひらを顔にあて、その熱さに沖田は呆然とした。

彼岸の赤さ(050129)