休憩時間に缶コーヒーを持って事務所の裏に行くと警備の長谷川が同じく缶コーヒーを持って携帯に向かって怒鳴っている。タイミングが悪い。山崎は尻ポケットに滑り込ませた携帯電話がさっきから癇癪持ちのようにぶるぶると震えているのを鬱陶しく思う。電波発信先は決まっている。上司である。できればあまり声を聞きたくないからきちんと漏れのないように報告書をこさえてやっているのにとりあえず結果結果結果、早く成果をあげてこいとやかましい。作業中にもぶるぶるやらかすので電源を切っておこうと思うのだがそうすると同僚からの連絡も拾えないので困る。上司の電波だけ避けられる技術をどうして天人は持ち込んでくれなかったのだろうと山崎は少しだけ恨みに思う。
 仕方がないので自販機の影で携帯電話のフリップを開けるとやはり上司である。メールでないのは、以前同僚が、土方さんがメール打ってるところを想像すると気味が悪くていけねえ、若作りが丸見えでさぁ、などと言っているのを影で聞いてしまったらしく、それからずっと気にしているかららしい。なんだそれと思う。あんた何歳だ。片手でプルトップを起こして一口コーヒーをすすり、通話ボタンを押した。耳にあてるまでもなく、あのかすれた声が騒ぎ立てて鼓膜を破ろうかという勢いだ。判ってますって、まだブツは運び込まれてませんって、それらしいのが来たらちゃんと連絡しますって。途中からわけの判らない愚痴に切り替わったのでそのままにして地面に置き、コーヒーを一口飲んだ。甘い。間違って砂糖の入っているのを押してしまった数分前の自分を殴ってやりたい。
 ああ?ふざけんじゃねえあんな高い店いけるわけねえだろうが。テーブルついただけで何万だぜ?訳わかんねえッつうの。お前このバイトの時給いくらか知ってるか?泣きたくなるぞ。いいから泣け。今から言うから今すぐ泣け。
 裏のほうで長谷川がわめいている。山崎がそろりと背を滑らせて角の向こうをうかがうと、サングラスを外して目をぬぐっている三十路後半男が目の真ん中に入ってくる。空き缶はすでに煙草の灰皿になっていた。耳は長谷川を向いたまま、目を地べたに置いた携帯電話に落とす。蟻が一列その上を歩いている。どうしてそっちの難儀なほうを選ぶのだ。ちょっとぐるッとまわれば済むじゃないか。山崎は通話が切れているのを確認し、そっと息をついてコーヒーを一滴地面に落としてやる。つかまってしまった蟻が一匹茶色い池でもがいている。酒池肉林だ。肉、肉と呟きながらポケットを探るとミルキーが一つ入っている。酒池の隣に肉を置くと恐る恐るといったふうに蟻がミルキーの周りに集まってきて、大きな白い肉をにらんでいる。
 判った、判った。それじゃ金持ってるやつに相談するから。あいつだったらまた定職ついてんの俺だけだからッつって奢ってくれるんじゃねえの?多分。おい判ったか、情けなさを知れ。うるせーよお前も同類だよ。
 勇気をもったある一匹がミルキーをよじ登った。山崎はコーヒーをすすりながら早くこの仕事が終わってほしいと思っている。携帯を拾いあげるとまだよじ登っていた蟻が振り落とされてしまってごみのようだ。
 あ、俺俺。いや詐欺じゃないよ詐欺じゃないから。うん、この間の。飲み行こうって話。いやあいつがさー、久しぶりに高い酒を飲みたいって行ってんだけど。金ないくせに。俺もだけど。
 メモリから上司の上司を呼び出して携帯を耳にあてる。あの人の声で、もうちょっとだから頑張れよ!とかを言われたら少しは頑張れそうな気がする。しかし通話中。仕事をしているんだろう、局長も大変だ。ぼそりと呟いてコーヒーをすする。甘い。数分前の自分を呪ってやりたい。そうこうしているうちに親方に、藤崎ィ!休憩とっくに終わってっぞと叫ばれていそいそと現場に走る。

隣の向こう(050226)