視覚は触覚を支配するのか、除湿をかけてある室内でも肌がべたついているような気がする。雑多なもので溢れかえる部屋の天井近くには、ここ数日の雨で外に干せられない洗濯物が吊り下げられていた。その下で亜久津は煙草を吸おうとしているものだから、南は刹那ぎょっとしてその口元に手を伸ばした。
 煙草を取り上げられた亜久津は、片眉を吊り上げ南を睨む。眼光に突き刺され、南は口の内側でその下唇を噛んだが、煙草を摘んだその手で洗濯物を指差した。亜久津がそっと溜息をついた。ソファに寝転んだ。
「あー……」
 チッチッチッチと舌を鳴らし、亜久津は、頭の後ろで組んでいた腕を持ち上げたりしては忙しない。南はいっそどこかに連れ出そうかと外を見る。降っているのか南の視力では判別できない。だが、庭にできた水溜りを見る限り、雨は降っている。透明な円はその隙間を縫うことなくできあがっては被さり、消えた。
「コンビニにでも行く?」
 ぼそりとこぼした言葉は、亜久津のところまで届いたのか知れない。それから数秒、生暖かな沈黙の下、南がもう一度口を開き変えたそのとき亜久津の上半身が跳ね上がった。テーブルの上に置いた、煙草のパッケージとライタを取り上げジーンズの尻に押し込み、ソファの背にかけたジャケットを手に取る。
「行かねえの」
「……行くよ」
 上着を取ってくると南は階上に上がり、自室のクローゼットからジャケットを取り出す。部屋を出しな、目に入った窓はカーテンが開いていて、そこから世界が覗いた。動体の存在しないそこはまるで時間が止まっている。向かいの家の屋根瓦が濡れて光っていた。明度彩度の極端に低い世界で、それだけが鮮明だ。
 部屋を出た。

 玄関、上がり框に腰を下ろした亜久津は南の足音に素早く立ち上がり、傘立ての一本を手に取る。安っぽいコンビニのビニル傘。扉を開けた途端、細かな粒が降りかかった。細かな春雨だ。重力加速度も関係なかった。ほんの小さな空気の流れで方向を変えた。
「要らねえか」
 手に取った傘をもう一度傘立てに放り込み、亜久津は、手ぶらで玄関の外に足を踏み出す。
「……行かねえの」
 振り返り、いまだ靴も履いていない南を仰ぐ。南は、濡れるぞ、と言い傘を指差した。
「持っていけよ」
「だったらお前が持てよ」
 言って亜久津は外に出る。南は一つ溜息、靴を履き傘を取った。
 ポン、と軽い音。傘を開き南は先を行く亜久津の背を追う。空気の対流が起こり、容赦なく傘の内側に細かな雨が入り込んだ。薄らと頬に膜ができたような気がした。ジャケットの表面に丸く雨の粒が並び、南はそれを手の平で撫ぜる。途端、思いもしなかった量の水分が手に張り付き南は慌てた。
「どっちも同じだろ」
 先を行く、亜久津が振り返り南を見ている。その睫毛に細かな雨が乗っている。
 南は亜久津を見、濡れた手の平を見、最後に傘を見て、目を落とした。布製のスニーカには水が滲んだ。傘はたたまず、濡れた手を亜久津に伸ばした。 路上、濡れた新しいアスファルトは雨粒があたる度にパチパチと音をたてた。誰も見てないと南は言った。

春雨道中(spring, 2003)