図書館のにおいが好きではなかった。本そのものの紙やインクのにおいはもとより、何百と棚につめこまれた本の上に積もったほこりのにおいだとか、始終空調のフィルタを通した空気のにおいも好きになれない。授業が終われば真っ先にテニスコートに向かい汗と土にまみれる生活をおくってきたので、図書室に入るといつも、ここは自分のいていい空間ではないと強く思う。居並ぶ分厚い本の背表紙はいつだって南を強く拒絶した。
 手元のメモを見ながらゆっくりと棚に目を滑らせた。次の社会科の授業で使う資料をうっかり返却してしまった教員が、たまたま職員室にいあわせた南に声をかけたのである。引きちぎられたノートの片隅になぐりがきされた署名はもちろん、南にはなじみのないものだった。
 しかしどれだけ見渡しても目当ての本がない。南は、棚に並ぶ本の背表紙をじっと見つめ、書籍番号と本の題名をにらんだ。手元のメモに目をやり、あっと、声をあげる。書名のあいうえお順に並んでいるものとばかり思っていたのだが、どうやらそうではないらしく南は頭を抱えた。本は番号順に並んでいる。しかしメモには番号などふられておらず、そっけなく書名があるのみだ。
 休み時間はあと十分もない。追いつめられて南はカウンタに目をやった。委員が暇そうに雑誌をくっているのが見え、その顔が見知ったものであったので南はほっとしてカウンタに足を向けた。最初からこうすればよかったのだと思う。
 あれ、珍しいな。先生に頼まれちゃってさ、この本ってどこにあんの?メモを見せると委員は少し顔をしかめる。名前判ってんならそこに目録あるから探してみ。これ?それそれ、あいうえお順だろ。あー……あったあった。番号は?***.**。*番台はあの奥の机の後ろあたり。お、サンキュ、助かった。つーか図書館の使い方ぐらい知っとけって。うっせーよとっくの昔に忘れたよ。
 無駄口をたたいたので勉強していたらしい生徒ににらまれた。肩をすくめながら南は言われた棚の前に立つ。人差し指が止まったのは膝元だった。布製の表紙は布目にほこりをためており、引き出すのがためらわれた。どうにか取り出してメモと見比べる。顔を上げた拍子に時計が目に入り、南はあわててカウンタへ走った。
 貸し出しを済ませて図書館を出ようとすると、向こうの棚に長身の白い髪が見えた。南は立ち止まってしまう。まるっきり不釣合いだと思った。亜久津はその棚からノートサイズの薄い本を取り出すと、カウンタをちらりと見て南のいるほう、出口へとやってくる。図書委員は南の分の貸し出しを済ませて奥の司書室に日誌を取りにいっている。誰もいないカウンタを横に亜久津は南に目をとめた。なんで自分は立ち止まってしまっているんだろうと思った。ひどく恐ろしい気持ちだった。
「お前、図書館なんかに来んの?」
 口元をゆがめて亜久津はその手の本を肩の高さに持ち上げた。
「……別に。先生に、頼まれただけ」
 目を凝らしてとらえたその本は写真集だった。表紙に見慣れない建築物の写真が載せられている。ふとかすった背表紙に赤いマークを見た。禁帯出の意味ぐらい南だって知っている。
 ニヤニヤと笑っていた亜久津は、急に南に興味を失ったか棒立ちの南を置き去りにして図書館を出て行った。体を横向けて南はその背中を見送ったが、時間がないのに気づいて図書館を出て廊下を走った。
 帰り、南のロッカーにあの写真集がほうりこまれているのを見つけた。背表紙の赤いマークはひきはがされロッカーの隅で握りつぶされている。

カシスオレンジのいろ(050814)