写真集は洋本で、翻訳されていない文字列は上滑りをおこすだけでちっとも頭の中に入ってこない。英語ですらない単語はもはや言語というよりはただの模様にすぎず、文字間の詰まったセンテンスはやがて蛇のようにぐにゃぐにゃと紙面を這いずった。
 廊下側の後ろから二番目の席に座って、南はロッカーに隠し続けてきた写真集を開いている。授業の終わった教室棟に人影はなく、静まりかえった廊下の一番奥まったところにある音楽室からわずかにピアノの音が届くのみだ。図書館と同じくらい馴染みのない教室である。義務教育における音楽という授業に身をいれられない一般の中学生男子と同じように、南にとってはバッハもモーツァルトもベートーヴェンでさえ音楽家という一言で一くくりにされた。断続的に届くピアノの音が譜面に書かれたとおりに奏でられているのかどうかも南は判らなかったが、音はとぎれたかと思うとまたゆっくりと南の鼓膜と震わせ、つかみどころのない音階とリズムで右耳から左耳へとすり抜けた。
 一枚一枚ページをめくっていくのがめんどうくさくなり、南は結局裏表紙を残した残りのページをまとめてつかんでパラパラと流した。直接この目で見たことはないが、南は南欧を思い浮かべる。スペインやイタリアの南のあたり。湿気のないあっけらかんとした空の青や、深いワインの赤、家々の窓に反射する強い光に少しだけ目を留めた。
 やがて残りページも少なくなろうかというときに、ページの間に一枚の水色の紙切れが挟まっていた。青でひかれた罫線を無視して大きな丸文字が踊っており、一目見ただけで南は顔をしかめた。それをつまみあげ、鼻を鳴らすと、手の中で握りつぶした。アホらしい。一言呟いて机につっぷする。手の中のメモがチクチクと肉をさすので、南はもうなにもかもが嫌になり、ふりむきざまにメモをゴミ箱へ放り投げた。傾きの小さい放物線の終点はゴミ箱ではなく、埃のかぶった床の隅だ。あー!と南は叫ぶと写真集を鞄に押しこみ、一つ後ろの机を蹴飛ばした。予想外に大きな音をたてて転がってしまったので、南は全速力で玄関へと走る。ストレスがたまっていた。そんなことは判っている。

「仁のお友達?」
 亜久津の家の前で立ち止まっているとそう声をかけられた。ふりかえると、明るい色の髪を夕日でさらに明るくさせて、南の肩ほどの背の女性が買い物袋を提げて立っていた。あいまいに返事をすると、女性はさも嬉しそうな顔をして玄関へと走りより、あがっていって、部屋にいると思うから、と言った。黄色のミュールがコンクリートを叩く音が高い。ドアが開く。
 母親?と南が首をかしげた途端、目の前に亜久津が眉をしかめ階段に片足をかけてかたまっていたので、やっぱり南は来なければよかったと思った。おとなしく塾に行っていればよかった。

 雑誌やコンビニ袋、その他のごみでそれなりに散らかった亜久津の部屋は、本人よりも人間くさかった。少なくとも生活臭のあることに南は安堵した。パイプベッドとテレビと机とクローゼット、本当にそれだけしかない部屋だったら見た途端に逃げ出すところだ。
 テーブルの上に音をたてて置かれた皿の上にはくし切りのグレープフルーツが八個、のっている。苦いようなすっぱいような匂いがさっきからずっとしている。それだけならいいものの、目からやってくる視覚情報に南はうんざりした。黄色スイカや夕張メロン、そういうものが南は苦手だ。ルビーグレープフルーツも例にもれない。
 テーブルのわきに胡坐をかいた亜久津の、形のいいエナメル質の粒が皮からはずれかけたグレープフルーツの果肉にかかる。皮が本来の方向とは反対方向に捻じ曲げられたその瞬間、パッと柑橘類特有のあの匂いが広がる。指に果汁がたれ、甲にとどまった。果肉が目の覚めるような赤なので、南はどうしても肉食獣を思い浮かばずにはいられなかった。
 目を外せないまま鞄をたぐりよせジッパーをあけた。手さぐりで中をまさぐりハードカバーをさがしあてる。人差し指のかたい感触を信じてそれを取り出した。薄いノートサイズの写真集をテーブルの上に滑らせると、亜久津は指をねぶるのを中断して少し考えるふうに眉を寄せた。
 いい加減、説明してやろうかと南が思ったときだ。亜久津は大声で笑い出した。
「お前、中身見た?」
 気圧されて、首を動かすことさえかなわなかった。亜久津は喉を鳴らせてひとしきり笑ったあと、アホだろ、なあ?誰かに見つかるかもしんねーのに。メモに書かれていたのは日記ともとれたが、明らかにそれを読む相手を意識していた。不特定多数ではなく、特定の誰かにあてたものだ。交換日記に近いものだと南は思った。
「お前が持ってきたんだから、戻しとけよ、ちゃんと」
 一気に笑い声が絶えた。亜久津はさっきまでとは別人のように音をたてなくなり、グレープフルーツに歯をたてるときだって果肉を引き剥がす音一つさせない。それはまるで無声映画のようで、階下や窓の外からの空気の振動音さえ消えうせて己の心臓の音だけが全てだった。
「で、なんか用?」
 その一声で一気に音が戻った。南は混乱して舌を動かすことができなくなり、言葉にもならない声をあげた。亜久津ににらまれますます口をきけなくなる。
「……あ、せ、席を変えて欲しい」
 は?と亜久津が言った。南は鞄をつかんだ。立ち上がろうとしたその肩を亜久津がつかみ、反抗できない力の強さでおさえこまれ息の根が止まった。前髪をつかまれ、濡れた指で唇をこじ開けられる。指につままれたグレープフルーツの果肉が、喉の奥の南でさえ触れたことのない部分にまで運ばれ、息のできない恐怖と舌に広がる苦味に耐えられなくなり南は腕を突き出した。なんとか亜久津を振り払ったが、舌をおさえるようにした亜久津の指の感触はぞっとするほどに気持ち悪い。喉のはじめのあたりにひっかかった果肉はなんどえづいても南を楽にせず、目尻に涙がにじんだ。指をつっこんで引きずり出した果肉はテーブルの上にびしゃりと音をたてて落ち、表面は果汁でなく唾液にてらてらと光った。手をついて息を整えようとするが、不意に胃液が逆流するのではないかという恐怖に南は目を見開いた。
 亜久津がまた声をあげて笑っていたのだけ、覚えている。

 昼休み、一番に写真集を持って図書館に行った。元に戻してそしらぬふりをして見張っていると、二年生らしき男女が二人してその棚にやってきて、ぎゃあぎゃあと騒いでいる。それだけ目におさめて南は図書館を出た。もう来るものかと思った。
 亜久津はその日、腹痛で休んでいる。

 始業ベルが鳴るまで、いつもと同じように机に突っ伏してやり過ごしていると体にものすごい衝撃が走った。肩を躍らせて顔をあげると、亜久津が無表情で立っており、顎だけを動かした。教室は打って変わって水を打った様子で、南はしばらくしてはじめて亜久津が机を蹴ったのだと理解した。
 寝不足のふぬけた顔で亜久津を見上げていると、さらに眉根を寄せた亜久津はもう一度、顎を振った。退けと言っているのだと、隣の席の生徒が南の肘をこづいた。
 南は慌てて荷物をまとめ、席を退いた。間髪いれず亜久津はその席に陣取り、南は、その席を離れながら椅子があったまっているのが気持ち悪くないのかなどとあさっての方向のことを考えている。やがて通常の喧騒の戻った教室内で棒立ちの南は、はっとして廊下側の席と亜久津とを見比べた。他の生徒の視線はさりげなく南と亜久津に配された。決まり悪く南は後ろへ下がっていくが、亜久津は少しも動かず授業の始まるのを待っている。

home, sweet home(050917)